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覚醒するには自我と好奇心の罠を知ることが大切らしい

覚醒するには自我と好奇心の罠を知ることが大切らしい

Q:自我が生物学的起源から生じ、遺伝子にも浸透し、社会もそれを強化し、根強くプログラミングされているならば、果たしてそこから抜け出すことができるでしょうか?

A:わたしたちは自我を”それ”として受け継ぎました。そして、実際に”それ”は非個人的なものです。あなたはそれが自分だと想い、同一化したときにはじめて問題が生じます。”それ”という自我の構造は、それほどユニークでも特徴的なものでもありません。多少のカルマ的な違いがあるだけで、比較的誰でも似たような”それ”を持っているのです。

本当に人によって違いが出てくるのは、そのプログラムにどこまで隷属的に従っているかの程度です。つまり、自我の大小は、どこまで当人がそれと同一化しているかによります。自我は本来何のパワーも持っていませせん。あなたが霊的に成長するにしたがって、自我のプログラムの影響を減少させるパワーが劇的に増加していきます。これが「意識のスケール」の本当の意味です。

自我のプログラムにすっかりはまっているとき、気づきや洞察なくしては、自分自身を助けることはできません。そういう人を見るとわたしたちは、あの人は欲、あるいは憎しみ、怖れ、中毒、プライドによって”動かされている”言います。こういうときに仮説や道徳の立ち位置を持ち出して、”あの人はこうすべきだ”と指摘するのは誤りです。実際にそれは、まったくの筋違いです。

無意識的に行動するということは、ただその言葉どおりで、”罪”というのは意識の進化の限界を表しているにすぎません。この限界のことを、ブッダもイエスも”無知”と呼びました。意識の進化がグラデーションで表されるように、ある人たちは他の人たちよりも道の先にいます。この単純な事実がわかれば、赦しと思いやりが、怒りや怖れ、憎しみ、非難に取って代わります。わたしたちは自分自身を赦し、受け入れると、自然に他者を赦すことができるのです。

Q:限界を受け入れることは、倫理観の欠如や醜行などの罪を招くのではないでしょうか?

A:赦すことと思いやりを持つことは、是認することではありません。200以下のエネルギーフィールドにいる人たちは、毎日が絶え間ない苦痛にさらされています。クリスチャンの伝統では、罪人たちのために祈ることが教えられます。また、非統合的でネガティブなもの(”悪”)と対決するのではなく、回避し、離れるように忠告します。”罪人”は、霊的な成長が原始的な段階にとどまっている、不運な人と見ることができます。

Q:自我をよく知ることの目的は、自我の武装を解き、受容する道を開くことですか?

A:自我が何ものかよくわかってないうちにそれを”克服”しようとするのは、罪悪感や自己非難など、さまざまなネガティブな感情を誘発します。そしてそれが主な原因で、多くの人は霊的な作業に取りかかることを躊躇しています。また、自分自身に正直になることを恐れ、自我の悪い面を他者、あるいは神にさえ投影します。嫉妬や報復、偏愛などはすべて自我に性質であり、神のものではありません。

より大局的な視点から見ると、自我は”悪”ではなく、本質的に自分本位の生き物であることがわかります。”動物的な自己”を理解し、受け入れないかぎり、その影響から逃れることはできません。まるでペットのように、内なる動物をコミカルで面白いものとして、罪悪感を持たずに見ることもできます。そして、よく訓練をしてしつけることを楽しみにすることもできるのです。この訓練がいわゆる「文明化」という言葉が意味するものです。

Q:思いやりのある目で見ると、自我はもはや手ごわい存在ではなくなりますね。

A:自我は究極的な真実ではなく、動物的な世界から受け継いだ一連の生存のためのツールでしかないので超越することが可能です。またわたしたちは、子供の感情的な表現の中に自我を見ることができます。つまり自我は動物的であるだけでなく、子供でもあるわけです。フロイドが精神分析の手法で明らかにしたように、無意識は意識化することで力を失います。

アンナ・フロイトは、自我の防衛メカニズムを解明しました。それによって、抑制、抑圧、否認、投影、その他本能的な衝動を自己に向ける行動に関しての概念も周知のこととなりました。わたしたちは、動物的な世界から受け継がれた潜在的な欲動を精神分析学の用語で”イド”と呼びます。両親や社会によって、”超自我”(良心)の統制機能が形成され、意識的な自我は動物的欲動を社会に適合させる機能を果たします。

”自我理想”とは、自我が描く自己の理想的なイメージです。そのイメージの中には、ヒーローを同一化したポジティブな自分の姿や、理想の人格、霊的な理想像などが含まれます。”ペルソナ”は、自我が社会に対して見せる姿であり、それがいわゆるパーソナリティとなります。

スイス人精神分析医のカール・ユングは、この精神のパラダイムに霊的な領域を付け加えました。興味深いことにユングは、人類は動物的な欲動以外に、”与えられたもの”を受け継いだというのです。ユングはまた、人類の中に共通性を見出し、それを「集合的無意識」と名づけました。集合的無意識は、概念よりもシンボルによって知ることができます。

後年、自己の解明は、「自己心理学」によってより綿密な研究がなされ、霊的な側面は「トランスパーソナル心理学」によってさらに研究が進められてきました。

わたしたちの存在に関する問題は、「実存分析」で取り上げられ、より進化した心理学は、何世紀にもわたって哲学が占めていた「人間性」という重要な分野に進出してきたのです。

Q:自我を理解するために、これだけのことをすべて知る必要があるのでしょうか?

A:そんなことはありません。ここでは、人類がどれだけの苦労をして自分自身のことを知ろうとしているのかを紹介しただけです。自我の支配から逃れるために、知性はこれほどの努力を払ってきたのです。

Q:意識が進化するためには、自我も必要な段階であることはわかりました。しかし、形あるものの世界が解明され、研究されつくした後にわたしたちが進む次の段階は、形を超え、その起源を探求することでしょうか?

A:それは論理的な行程です。知性にとって、物理学や化学、天文学、宇宙学などで形あるものを探求することは非常に魅力的でした。その後に人間が抱く疑問は、この宇宙がどこから生まれ、どこへ行くのかということです。実はこの疑問は、もうひとつのきわめて重要な人間の動物的本能を表しています。それは、好奇心です。動物は、食料や交尾の相手や住まいを得るために常に本能的に探す習性があり、それが飽くなき好奇心となりました。

探求者は人間の生まれ持った習性であり、その最も高度なレベルが霊的な探求となります。そしてそれは、わたしは誰なのか、わたしは何なのか、どこから来たのか、自己の起源と運命はどのようなものなのか、神とは何であり、どこにいるのか、といった疑問を生じさせるのです。

Q:すると好奇心は、霊的探求者にとっては有益ではないでしょうか・

A:謙虚さを持てば、好奇心は役に立つ家来となります。しかし分別のない人にとっては、深刻な落とし穴になりかねません。好奇心はナイーブな求道者を袋小路に誘い込み、いらない妨害や誘惑をしたり、ひどい場合は致命的な罠に落とし入れます。だからこそ、わたしたちは真の教師を必要とします。

繰り返しますが、謙虚さは、何度言っても足りないほど重要な事実を受け入れる姿勢をつくりますーその事実とは、人間の心(マインド)は真偽を見分けることができない、ということです。この事実が誤りであれば、歴史に戦争はあり得ませんし、さまざま社会問題も、無知も、貧困も生じてないはずです。人類はとっくに覚醒しているはずですし、何世紀もの間、意識レベルが190にとどまっているわけがありません。

ディヴィッド・R・ホーキンズ著 <わたし>真実と主観性 より抜粋

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