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ユングの意識レベルは520で多神教の神々は自我の投影

Q:なぜ世界には、これほどまでに多くの神が存在するのでしょうか?

それらの神々は、何にでも気ままに擬人化する自我の投影を表しています。自我は生まれながらに限界を持っているために、神を経験的に知ることができません。

神は、存在や気づきの能力の根底にある絶対的な主観性です。神は、あらゆる時間、場所、人格を超えてます。歴史的覚者が描写する「究極の真実」はすべて同じです。「至高の真実」はただひとつです。

古代文化の神話の神々や半神半人など、その他さまざまな神の形態は、豊穣、自然、収穫といった限られた部門や働きを持っていました。「神性の真実」の場所に、明らかな制限を持った偽りの神々が仕立てられ、究極の「創造の神」が除外されていたのは明白です。

「至高の神」あるいは「非顕在の神」は、あらゆる描写を超えているので、「究極の悟り」は根源的かつ純粋な主観性であり、いかなるコンテント(内容/中身)も含んでいません。自らが神だとあざむくエンティティ(霊的存在)は、「無限なる至高者」の絶対的な神性を認めることができません。

つまり偽りの神とは、真理と権力やプライド、他者の支配のために退け、自我が神であると宣言するルシファー的欺瞞に屈服した存在だと言えるのです(誇大妄想もそのひとつです)。

「絶対的真実」は何も必要としていません。というのも、すでに「存在するすべて」だからです。それ自体が力であるものは、力を必要としません。「無限のパワー」は、何も支配する必要がありません。同じように、空は雲を必要としていませんし、雲を創造も破壊もしません。雲はただ、無限に広がりゆく空間に生じるだけです。そのことについて、空は雲を殺したり報復したり罰したりしません。空はあらゆる雲に平等であり続け、雲が消えたり現れたりするためのコンテクスト(文脈/状況)を提供しています。

Q:疑いに効く解毒剤はありますか?

A:神への気づきは、皮肉や懐疑主義、合理的な警戒心、ネガティブ性、そして無知によって曇らされます。自我は自らの世界観に挑戦されたり、疑問視されたりすることを嫌います。これらの背後に潜む動機を明らかにすることでその理由がわかります。自我は自らの真理のパラダイムを恐怖から守ります。自分と異なる情報に怯え、防衛的にふるまいます。というのも、そうしなければ、”自分が間違っている”ように見えかねないからです。また、自分の見方に責任も取りたくありません。責任を取れば、それを選択していることになるからです。

宗教心、組織的忠誠心、あるいは民族や家族の伝統から争いが生まれます。しかし、真摯な霊的探求者の忠誠心は神のみ向けられます。霊的な見方をすれば、疑いは間違いを知らせる健全なシグナルである場合もあります。ナイーブな人も霊的に成熟すると識別力が養われ、警報を鳴らすかもしれません。疑いが生じたら、いつでも”立ち止まり”なさい。もしかしたら、今所属している団体や教えからはみ出してしまったのかもしれません。そのときは、先に進みなさい。

また疑いは、慣れ親しんだ自己のアイデンティティや信条を失う怖れから生じる場合もあります。疑いを明らかにするためにには、ただあなたの動機を突き止め、それをキネシオロジーで確認すればよいのです。キネシオロジーテストは、瞬時かつ正確に「イエス/ノー」というシンプルな答えを導き出すことができ、質問者が質問に気をつけるなどの基本的なルールに従っていれば、信頼性の高いものです。たったひとつの言葉を変えるだけでも異なる結果があります。したがって、関連した複数の質問をして確認することをお勧めします。答えの不一致が出たときは、さらに質問を続けることで間違いのもとを明らかにすることができます。不注意な質問文は間違った答えを導くことになりかねません。

かつて次のようなことがありました。長い間カール・ユングの意識レベルは520前後と何度も測定されていたのですが、ある質問者が「カール・ユングの意識レベルは500以上です」と質問したところ、「ノー」という答えが返ってきたのです。不信に思い、「カール・ユングの意識レベルは500以上に測定されました」と言い直したところ、「イエス」の答えが返ってきました。はじめの質問が「ノー」だったのは、カール・ユングが故人だったからでした。

特定の教師や霊的な道の価値を確かめたい場合は、それが200以上に測定されるかどうかがきわめて重要なポイントになります。どんなレベルにも、それにふさわしい教師と教えがあります。300台の教えはやる気を促し、情熱的に自らのパワーを使うことを支援します。ときには、より高度な文献を読むよりも、情熱的でやる気がみなぎっているグループに所属したほうが有益なこともあります。

また、師と生徒の間にあまりも格差がある場合は、大事な教えのほとんどが見落とされたり、吸収されなかったりします。

きわめて高い意識レベルにいる覚醒した聖者でも、教えることが不得意の人もいます。偉大なピアニストが必ずしも素晴らしいピアノ教師でないのと同じことです。教えることは、妙技以外のさまざまスキルを要するのです。

優れた教師とは、異なるレベルの真理を、生徒におのずと明らかにされるようなコンテクストの中で忍耐強く説明できる人物です。そのために教師は、あらゆる意識レベルとそこに生じる問題に精通していなければなりません。また、各レベルの門前に立ちはだかる二極性という、生得の二元性と立ち位置を超えるための奨励ができなければなりません。

教師の知識は、教師自らの内的な真理の啓示からのみ発せられたものでなければならず、それが何よりの覚醒の証です。そうしてはじめて、教師は紛れもない確信と威信をもって、絶対的真理を伝えることができます。

真実の師は、「臨在」(古典的用語では「プルシャ」と呼ばれます)を介して知り得る真理を明らかにします。師の智慧の源は外部にはないため、たとえ歴史上の有名な教師の言葉を引用したとしても、理解を助けるために生徒に馴染みのある言葉を用いているにすぎません。覚醒した師は、外的な確証に依存しません。

理想の師は、話している真理のレベルを明らかにします。今日の霊的な共同体は、はっきりとしたレベルを測定することができ、その結果も相互に確認することができます。師の智の源泉は非侵略的なので、防御する必要がありません。

霊的真理とは、それ自体で完結し、それ自身の恩恵の上に立っているのです。真理とは自明のものであり、いかなる外的な支持も同意も必要をしません。あらわになった真理の絶対的主観性は、自我のあらゆる考察や不確かさを払拭します。そして、自我が崩壊したとき、あらゆる議論は止み、ただ沈黙に包まれます。疑念は自我です。自我は根本的に疑いのかたまりであり、終わりのない問題や疑念、障害をつくることで生き延びています。そして、「自己」が表す「絶対的真理」の圧倒的な確信に直面すると、自我は崩壊し、文字通り死んでしまいます。これが唯一起こりうる真の死であり、幻想の自己のみがそれを恐れているのです。

ディヴィッド・R・ホーキンズ著 <わたし>真実と主観性
第1章 教師と生徒 より抜粋

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