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覚醒した精神科医の歴史的概要①

覚醒した精神科医の歴史的概要①

わたしの生涯を通しての強烈な意識の状態は幼年期に始まりました。それは、最初にインスピレーションとなって現れ、その後、主観的悟りのプロセスを進むための指針の役割を果たしました。わずか三歳の時に、突如存在のあるがままの状態に完全に目覚めるという現象が起こりました。

非言語的な部分で深淵な”存在”の意味を完璧に理解すると、すぐにそもそも”わたし”は存在していないのではないかという身も縮むような恐ろしい洞察が起こりました。おぼろな意識が突然、自覚的な意識に目覚めた瞬間に、個人的な自己が生まれ、”is(そうである状態)”、”is not(そうでない状態)”の二元性が主観的意識の中に立ち現れたのです。

子供時代と思春期を通して、存在の抱える矛盾と自己の本性への問いが絶えず心を占めていました。時折、個人的自己がより大きな非個人的な「自己」の中にすべり込むと、当初の非ー存在(non-existence)の恐怖ー無に対する根源的な怖れーが再燃しました。

ウィスコンシン州の田舎町で、十七マイルのコースを自転車で回りながら新聞配達をしていた1939年の頃、家から数マイル離れた真っ暗な冬の夜道で氷点下20度の猛吹雪に襲われたことがありました。自転車は氷の上に倒れてしまい、荒れ狂う風が新聞を荷台からもぎ取り、雪に襲われ凍結した地面一面に吹き飛ばされてしまいました。

悔しさと疲労の涙がにじみ、着ていた服は凍りついてこわばってました。わたしは暴風から逃れるために、高く積もった雪堤の外壁を砕いて隙間をつくり、中に潜り込みました。程なくすると震えは止まり、えも言えぬ暖かさに包み込まれ、あらゆる描写を超えた平安が訪れたのです。

そこには、自らの本質と不可分の始まりも終わりもない、光りと無限の愛の臨在が充溢していました。肉体と外界の感覚が次第に薄れていき、気づきはあまねく存在する光に照れられた状態と融合していきました。心に静寂が広がり、あらゆる思考がやみました。「無限なる臨在」が存在するものすべて、あるいはそこに唯一存在できるものになり、時間もいかなる描写も超えていました。

どれくらい時間が経ったのでしょうか。何者かが膝をゆらし、不意に意識が戻りました。そこには不安げな表情をした父の姿がありました。肉体とそれに付随するすべてに戻ることはひどく億劫でしたが、父の愛を苦悶のおかげで、「霊」は肉体に滋養と活力を注いだのです。父の死への恐怖に同情しましたが、同時に死という概念そのものが不条理に感じられました。

わたしはこの主観的体験について口にすることはありませんでした。というのも、その体験を描写する手がかりとなるようなものは何もありませんでしたし、聖人たちの生涯を記した文書以外、ほとんど霊的経験について耳にするようなことはなかったからです。

しかし、その体験以後、現実として認識される世の中の出来事は、仮のものでしかないと感じるようになりました。伝統的な宗教の教えは重要性を失いました。存在するものすべてを輝かせる「神性の光」に比べると、伝統的な宗教の神は鈍くくすぶっているだけでした。こうして、霊性が宗教に取って代わったのです。

それから第二次世界大戦中、掃海艇での危険な任務に就いたとき、しばしば死の危機に瀕しましたが、死ぬことに恐怖を感じることはありませんでした。あたかも死そのものが信憑性を失ってしまったかのようでした。戦後は、心の複雑さに興味を抱いていたことから精神医学を学び、医学部に進み研修医になることにしました。精神分析医になるための指導をしてくれたコロンビア大学の教授は不可知論者でした。わたしたちはともに宗教に対して懐疑的でした。わたしは精神分析でよい成績をあげ、キャリアも順調に進み、成功を手に入れました。

けれども専門家としてストレスの多い生活から徐徐に致命的な病が進行し、どんな治療法も効果を示すことはありませんでした。38歳にしてわたしは極限状態に追いつめられ、死期が迫ったいることを悟ったのです。肉体に関心はなかったのですが、霊(スピリット)がひどい苦悩と絶望感にさいまなれていました。そして最後の瞬間が近づいたとき、次の言葉がふと頭によぎったのです。「もし神が本当に存在するのだとしたら?」。それからわたしは声に出して祈りました。「神よ、あなたがいらっしゃるなら、どうかわたしを助けて下さい」と。

神が何であれ、すべてを明け渡すと、意識は忘却の淵に沈んでいきました。再び意識が回復したとき、何か途方もなく大きな変容が起こり、ただ沈黙と畏怖の念が広がっていました。

もはや“個人”は存在しませんでした。個人的な”わたし”も自己も自我もなく、ただ”わたし”に取って代わった限りないパワーの「無限なる臨在」があったのです。身体とその行動は、完全にその「臨在の無限なる意志」によって統御されていました。世界は、「無限なるワンネス(一体性)」の明晰さによって光り輝いていました。万物は、「神性」の表現としてその無限の美と完璧さをあらわしたのです。

その後も、静寂はとどまり続けました。個人的な意志は消滅し、肉体は限りなく力強くありながら、この上なく優しい「臨在の意志」に完全に従っていました。

その状態では何も考える必要はありませんでした。すべての真理はおのずと明かされ、いかなる概念化も不要となり、可能でさえありませんでした。また肉体の神経系にはひどい負担がかかり、あたかも神経回路の耐性を大幅に上回るエネルギーを抱えているかのようでした。

世界にうまく機能することはもはや不可能でした。あらゆる怖れや不安とともに通常の意欲がなくなったのです。名声や成功、お金は意味を失いました。友人から、診療の現場に復帰するように説得されましたが、その気がまったく起りませんでした。

けれども、わたしは人格の下に横たわる真実を知覚する能力を持っていることに気づいたのです。感情の病は、それが自分の性格だと思い込む信条が原因しているのです。臨床診療はおのずと再会され、最終的には以前よりも拡大していきました。

外来患者が二千人以上にも膨れ上がったので、50人以上のセラピストや他の従業員に加えて、25の診療室と、研究所や脳波計の実験室も置かれました。さらに、毎年千人もの新患が訪れました。また、ラジオやテレビ番組にも取材を受けました。1973年にライナス・ボーリング教授と共著で『orthomolecular Psychiatry(正常生体分子の精神医学)』という本を著し、臨床研究の成果を発表しました。しかし、当時からすると十年先の内容だったので、精神医学界に波紋を投げかける結果になりました。

当時苦しんでいた神経系の状態が全体的に少しずつ改善されるにしたがって、新たな症状が現れました。甘美なエネルギーの束が絶えず脊椎から脳に逆流し、強烈な快感を伴うようになったのです。人生の出来事がすべて共時的におこり、完璧な調和の中で展開していきました。奇跡は日常的に起るようになりました。世の中が奇跡と呼ぶ現象の起源は「臨在」であり、個人的な自己とは無関係でした。残された個人的な、”わたし”はただそうした現象に気づいているだけでした。かつての自己や思考よりも深く、偉大な<わたし>がすべての決断を下していたのです。(中略)

日課だった朝と夕食前の一時間の瞑想は中止せざるを得ない状況になっていました。というのも、余計に至福の状態を増幅させて、まったく社会に機能できなくなってしまったからです。あの雪堤の中で経験したような現象がたびたび訪れ、そうなると元の状態に戻るのがきわめて困難になりました。万物の息を呑むような美が完璧さの中で輝き、世の中が醜悪と見るものも、わたしには不朽の美以外何ものでもありませんでした。霊的な愛があらゆる知覚や、こことあそこ、かつてと今といった制限を飲み込み、分離を溶解してしまったのです。

内なる沈黙とともに数年を経るうちに、「臨在」の強さが増してきました。人生はもはや個人的なものではなく、そのような意志さえもありませんでした。個人的な”わたし”は消滅して、「無限なる臨在」の道具となり、通常どおりに生活を送りながら、「臨在」の意志のままに行動していました。訪問者は、「臨在」のオーラから限りない平安を感じました。答えを求めて訪ねてきた求道者も、かつてのわたしの自己のような個人性を失い、自らの「自己」から答えを導き出して帰っていきました。彼らの「自己」も、私の「自己」も何ら変わりのないものでした。同じ「自己」が各人の瞳から輝きを放っていました。

常識では想像もできないような奇跡がひとりでに起きました。数年間悩まされた肉体の慢性的な疾患も消滅してしまいました。視力も自然と回復し、それまでずっとかけていた遠近両用メガネも必要なくなりました。突如ハートから「無限なる愛」のえもいわれね至福のエネルギーが放出されて災難の現場に降り注ぎ、奇跡的な救済を起こすこともしばしばでした。

予期しない状況で、前触れもなく著しい知覚の変容が起こることもありました。それまでは通常通りに分離していた景色や人々が、突如時を超えた普遍の一体性の中に溶解するまで、圧倒的な「臨在」が押し寄せてくることもありました。

静止した「沈黙」の中では、”出来事”も”事象”も存在しません。実際に何事も”起こって”いないのです。なぜなら、過去・現在・未来も、生死から逃れることのできない分離でした。”わたし”という幻想も知覚の人工物にすぎないからです。

制限された偽りの自己が、真の源である普遍的な「自己」の中に溶解すると、ようやく家に帰り着いたという筆舌に尽くしがたい感覚に包まれ、究極の平安とあらゆる苦悩からの解放感が訪れます。そして、すべての苦しみの原因は、自分が分離した個人であると思い込む幻想にあることがわかります。自らが宇宙で、完結しており、「存在するものすべて」とひとつであることがわかると、未来永劫苦しむことはあり得ません。

ディヴィッド・R・ホーキンズ著 <わたし>真実と主観性
はじめに より抜粋

覚醒した精神科医の歴史的概要②

ホーキンズ博士について

意識のマップについて

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