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トランサーフィンの内的意図と外的意図の違いと幸運の波に乗れない理由

自分の短所と格闘するより、長所に注目した方がイイというヴァジム・ゼランド氏のトランサーフィン理論によると、

「幸運の波」に乗るためには、ネガ・スライドをポジ・スライドに変換し、自己イメージを好ましいものにすることが大切だけども、

それは「がんばって」行動する内的意図ではなく、

なぜなら、あなたは内的意図によって短所を隠したり一掃したりできると思っていたからだ。これからは、あなたが美しさのかぎりを尽くして光輝いているようなスライドを自分の頭の中に作っていただきたい。このスライドの中の自分を好きになって、あらゆる細部まで描き加えることで、手入れをしてあげよう。

外的意図という、ちょっと不思議な感じのする魔法のような力が「鍵」です。

意図は、内的意図と外的意図に分類される。

内的意図とは、取り巻く世界への積極的な作用を言わんとしているのだが、これは行動する決意のことである。

内的意図は、目的に向かう自分の運動プロセスに注意力を集中させることである。

外的意図とは、目的自体が実現させるプロセスに注意力を集中させることである。

内的意図によって目的が達成され、
外的意図によって目的が選択されるのである。

魔法や超常現象に関するものはすべて、外的意図に関係している。

一般的な世界観の枠組みで達成されそうなものはすべて、内的意図の力によってそのようになる。

「機が熟す」とか「奇跡」は、外的意図と関係してそうですが、こちらの最新版では、

外的意図のために、やってはイケナイ事柄について、わかりやすく説明されてました。

・・・・・・・・・・・
<人は鏡の反映に支配されているーだから、「思考は災いのもと」となる!>

取り巻く現実は、人が直接的に行動した結果として何らかの程度形成される、というのが一般的な考え方である。しかしながら、思考イメージというものはそれに劣らない力を持っているのだが、ただその働きはそれほど明確には現れない。

それもほとんどの場合、ネガティブな態度から引き起こされる問題の数が最も多い。形四上学的に生じたそのような厄介事を、その後、物質レベルで片づけざる得なくなることで、事態はますます紛糾する。

全体としては、個々のリアリティの様相は、その人を取り巻いているあらゆるものとの関係においてどのような感情を持っているかにかかっている。しかし、同時に、その人の気分というものは、周囲で起きていることによって制約を受けるものである。

リアリティは人の思考の形(イメージ)が反映されたものとしてかたちづくられるが、その形(イメージ)とはというと、反映そのものによって決まってくる、というようにフィードバックが延々と繰り返される罠に陥ってしまう。

鏡の前に立っている人は、自分自身を内側から眺めようとせず、鏡に映る姿に注意を向ける。そのため、フィードバック回路の罠にはまる際に支配的な役割を演じるのは、思考の形(イメージ)ではなく、反映ということになる。

人は鏡に支配されている。なぜなら、まるで魔法にかけられたように、自分のコピーに見入ってしまうからだ。オリジナル自体を変えることが可能だなどとは思いも寄らない。反映のほうに注意が釘付けになるため、私たちは、自ら進んで望んだわけではないものを受け取ってしまう。

通常、ネガティブな感情は完全にその人の注意を奪ってしまう。人は困っていることを案じる。人は欲しないことについて思いを巡らせる。こんなふうに逆説的なのだ。

しかし、鏡は、人が望むものか望まないものかを斟酌せず、ただ中身を正確にきちんと伝達しようとする。

そうなるときわめて馬鹿げた状況になってくる。人は受け入れられないものを常に引きずっているわけだ。「口は災いのもと」ではなく、「思考は災いのもと」なのである。馬鹿げているように聞こえるかの知れないが、実際はまさにこのとおりなのだ。

人が何かを憎んでいるとき、どんなことが起きているのだろうか。その人はその感情に魂と理性の一体化したものを注ぎ込んでいる。明確なイメージは非の打ちどころなく鏡に反映されて、世界の層全体を満たす。憎んだものを人生においてたっぷりと受け取ることになる。

もし鏡の前に立って、「お前なんかとっとと失せろ!」と大声で叫んだら、どのような姿が鏡に反映されるだろうか。「お前」、つまり、そう、あなたが自分の世界とともに消え失せるという姿が反映されるのである。

同様のやり方で、非難の対象は「非難する者」の層に押し入ってくる。典型的な例をイメージ願いたい。怒りをあらわにした中年女性が非難を込めた眼差しで世界全体を眺めている。彼女自身が、「人々と法の良心の前における」厳格で絶対的に正しい法の裁きの権化となっている。自分以外のすべての世界は、彼女の気に入らないことに対して責任を負うべきだと思っている。鏡に映し出される光景はきわめて具体的で明らかなものとなってくる。

このように強いうねぼれをもって鏡を覗く人は、自分の周りにそれと等しい現実、すなわち、やむことのない不当な現実を作り出す。世界としてはそうする以外に反応のしようがない。世界は彼女を非難しているわけではなく、自分が正しいとも思っていない。世界は、その本質によって、世界についてイメージされるとおりの姿になるのだ。

何かへの不同意の場合も同じことが起こっている。たとえば、もし女性がアルコール摂取にきわめて否定的な態度を取るなら、彼女は至る所でそのような場面と遭遇するように運命づけられることになる。彼女は飲酒にまつわる様々な出来事に悩まされる。それには彼女自身がアルコール依存症の男性と結婚するということまで含まれている。・・・飲酒を許せない気持にどっぷり浸った妻は、自分の思考イメージを夫の世界の層に実際に持ち込むこともあり得るのだ。

悲観的なことを予想する傾向は、傍から見ていても見ばえのするものではない。「どうせどうにもならないさ!」というタイプはサドマゾ的である。・・このような避けがたい破滅的運命を持った不幸者は、「一生は真っ暗闇に包まれ、一条の光すら見えない」と言って、自分のありがたくも何ともない状態を確かめる。その人はそんな運命にならないように全力で望んでいるのだが、まさにそれにより、すべての思考エネルギーを愚痴と呻き声に向ける。しかし、もし形(イメージ)あるものが絶えることのない不満ばかりであれば、鏡は何を映しだすことができようか。

形(イメージ)が「私は不満だ!私は嫌だ!」となれば、反映も「そうです。あなたは不満です。嫌なんです!」となる。やはり事実は事実であり、それ以上でもそれ以下でもない。

<「もし私が自分を気に入らなければ、私は自分を気に入らない」という黄金の法則>

自分に体する不満は逆説的な性質を持つ。それは自然に発生する。度しがたい大ばか者のために教科書に載せてもよいくらいの「黄金」の法則がひとつある。それは、「もし私が自分を気に入らなければ、私は自分を気に入らない」ということだ。この同語反復には、それがどんなに意外に思われようと、大半の人々が行動指針とする原則が含まれている。

たとえば、容姿を例に取り上げてみよう。ほとんどすべての子供たちはとても愛嬌がある。では、自分の容姿に不満を持つたくさんの大人たちは、いったいどこから出てきたのだろうか。すべては、あらゆる不満をことらに投げ返してくれるあの鏡からだ。自分に見とれる傾向のある者たちは美しく育っていくが、まさにここに秘密がある。彼らは「もし自分で自分を気に入ってると、気に入る理由がますますたくさん現れる」という決まりに従っているのだ。

形(イメージ)が自分の反映に対して「なんだか私は太ったわ。痩せなくちゃ!」と言うと、まったく話が違ってくる。鏡はそれに対して無表情にこう返事をする。「ええ、あなたは太ってますから、痩せなくてはいけません」。・・
リアリティは、聞いたことを請け合いながら、こだまのように応対する。

同様に劣等感もひとりでに育つ。低い自己評価の後に、それに応じた決まり文句が続き、それを鏡は実現させる。「私には取り立てて言うほどの才能はないのか?」ー「はい、あなたは凡庸です」。「私なんか素晴らしい運命を送るに値しないということか?」ー「そうです、もうこれ以上何も期待してはいけません」。

以上に加えて、もし生来の罪悪感があるならば、万事休すだ。「私に罪はあるのだろうか?自分の借りを埋め合わせる義務があるのだろうか?」ー「はい、あなたは罰を受けて当然ですし、そうなるでしょう」。いやはや、そうならないわけがない。もし人が、たとえ無意識的にでも、自分の罪を感じていると、鏡には何が映しだされるだろうか?報いを受けることは必然的となる。

不安や恐怖はすぐに現実化されるだろうか。人は非常にたくさんのことを恐れるが、それらの大部分は、多大なエネルギー消費を有するため、起こりはしない。不幸や災害とは、平穏なバリアントの流れから飛び出した異常事態である。しかし、もし好ましくない事象がバリアントの流れから遠くないところにあるとするなら、人は思考によってそれを引き寄せるため、その事象は必ず起きてしまう。
・・・・・・・・・・

ロシア版「引き寄せの法則」は、なかなか具体的でわかりやすいけど、「わかっちゃいるけど止めらない」のがミソですね〜

「電磁波防御 cmcbioペンダント」の副次作用と「脳の血流量が低下」に影響するもう一つの要素

引き寄せを超える「最適化の法則」ゼロポイントフィールドにつながる方法

環境汚染を最小にする「ベビーマグちゃん」を使ってみました!

 

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COMMENTS & TRACKBACKS

  • Comments ( 8 )
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  1. 「愛」とか「手放す」とかもムズカシかったけれど、思考、考えること、学ぶこと。。。とかいった言葉の定義とかもムズカシイ今日この頃ですネ。
    http://oka-jp.seesaa.net/article/420843488.html

    • それと無度さんはロス家に付け届けをしていて仲良しみたいなので、いきなりは干されないらしいです。

      よかった、よかった。┗(`・∀・´)ヨッシャ

      • 「学ぶのをやめて考えなさい」 は、「好きが嫌いか」と併用しないと、考える罠に陥る場合もありそーで、要は健康上にイイのイイですネ。

        <無度さんはロス家に付け届けをしていて仲良し>

        で、Y系に詳しいんですかね〜??

  2. こんにちは、
    トランサーフィンについて質問があります。どなたかお答えいただけたら助かります。

    過剰ポテンシャルが生まれると、平衡力によってポテンシャルが解消される、ということは理解できました。なのですが、例えば、ミュージシャンになりたい、と強く思っているAさんがミュージシャンになれないのは、過剰ポテンシャルとその解消という面で、どういった事が起きているからですか?

    また、本の中で、悪習を良い習慣に変える、という事について、「習慣は非常に根深いものだから、習慣を変えようという思いすら忘れている自分にきづくだろう、しかし、固い決意をもって臨めば、目標が達成できるし、振り子も最後には放っておいてくれるようになる。」と書いてありました。しかし、この「固い決意」というものこそ、過剰ポテンシャルを生んでしまうと私は思うのです。実際に、私が過去に固い決意を持ち、それが目標達成という結果になったためしが一度もないのです。この、ヴァシム・ゼランドさんの、最後には結局、決意や努力、という点に、それ以外の書いてある事が素晴らしい事もあり、すごく違和感を覚え、納得ができません。

    それについて、どう解釈したらよいのでしょうか。

    長文で失礼いたしました。

    • ご質問の件ですが、本は翻訳の問題もあって、誤解が生じたりしますが、お尋ねの点は、とても難しい。。そして大切なことなので、後日、記事にしますので、少しお持ちください!

      • ありがとうございます!
        いつでも大丈夫ですので、楽しみに待たせていただきます。

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