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やっぱりスゴい人だった小野田 寛郎氏が日本人に一番伝えたかった事

6月6日、梅雨入りした翌日の朝、長野県の白馬では白い虹が出ましたが、

白い虹は「7色の虹」より上空で出るとのことで、
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「すごいぞニッポン!」って、感じですが、
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そのニッポンにはかつて「陸軍中野学校」という特殊部隊があり、選抜された「能力者」の養成機関でしたが、
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ナント北朝鮮は、「中野学校」のノウハウを手本にしてるそうで、しかし日本人は、「中野学校」のことを何も知らない(無関心)と指摘されてます。

JR中野駅近くにある東京警察病院の敷地の片隅には、今も人知れずひっそりと植木に埋もれた「陸軍中野学校趾」の石碑が建てられている。まさに陸軍中野学校がいまだに歴史から消え去られ、歴史に埋もれているようだった。残念ながら日本が貴重な歴史の教訓に目を向け、十分に学んでいるとは思えない。

東洋経済オンライン

まあ、戦時下のことは、あまり想い出したくないという向きもあるのでしょうが、
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今、旦那さんの仕事(建築)現場が中野にあり、地下を掘ったら、古い井戸が出てきたりで、中野学校で何が行われていたのか気になるところです。

で、この「中野学校」出身で、戦争が終わってもずっとフィリピンのジャングルで闘っていた小野田さんは、
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日本人冒険家・鈴木紀夫氏の呼び方で、やっと帰国しましたが、

<1974年帰国>

だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚金七死亡後の孤独により疲労を深めていった。昭和49年(1974年)に、一連の捜索活動に触発された鈴木紀夫がルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国をうながし、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する。

wikipedia

もしそうでなければ、先立った仲間3人と同じく、ジャングルで「野垂れ死」となった可能性が高く、

後に小野田さんは、最後の仲間を目の前で失った無念を語り、

1972年10月19日に起きたフィリピン警察軍との銃撃戦で肩を撃たれて三八式歩兵銃を落とし、さらに胸を撃たれて倒れる。小野田は小塚の銃で5発、自身が持つ九九式短小銃で4発撃ち警察軍の攻撃を抑え、倒れた小塚を揺さぶるもその時には白目を向いて口から血を流しており既に死亡していた。享年51。最終階級は上等兵。小塚の死に対し小野田は「復讐心が高まった。目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」と後年怒りを込めて述べている。

wikipedia

「昭和天皇との謁見」も断ってます。

小野田に対し、日本国政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。昭和天皇との謁見も断り(万が一、天皇が謝罪するようなことを避けるため)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を墓参している。

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まさに「潔い」、昔の日本人という感じで、中野学校で選り抜きの人材を鍛えていたのは確かなようです。
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それにしても若い頃の小野田さん、イケメンですネ・・

帰国直後の小野田さんに関しては、当時のゴーストライターの息子さんが、こんなエピソードを語ってますが、

私には単なる「気が小さいおじさん」にしか思えなかった。

なぜなら、この夜、私は小野田さんと一緒に風呂に入り、彼の背中を流しながら話をしたからだ。

私はおそるおそる聞いた。「小野田さん、戦争が終わったのを知っていたんですか?」

すると、小野田さんは、なにかに怯えているような目つきになり、「そうだ」とぽつりと言った。私はこのとき、ただ、「やっぱり」と思っただけだった。それから、小野田さんは湯船につかりながら、突然、持っていた銃の話をしてくれた。「坊主、銃というのはこうやって構えて、こうやって撃つんだ」みたいな話だった。

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamadajun/20140124-00031918/

変わり果てた「日本」に馴染めかった小野田さんは、帰国後半年でブラジルに移住し、大成功しますが、
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ペルーの先生もそうでしたが、日本を離れた日本人の方が愛国心が高まるようで、

「小野田自然塾」を設立し、若者の育成に励み、以下は、元塾生からの情報です。

*任務が特殊任務(特務いわゆるスパイ)だから捕虜には絶対なれなかったことが 出頭しなかった最大の理由ということだけど、実はもう最後のほう1人になってから 「意地」「やけくそ」「やれるとこまでやったらあ」だったらしい。

*年金額は教えてくれなかったけど遺族年金戦没者年金じゃなく、 国家公務員に準ずる年収を1948年から30年分っておっしゃってた。 30年分の給料を原資にしてブラジルに広大な土地買って放牧。 騰がり分で自然塾作ったと。

*家畜の牛襲ったのは最初に死んだ部下。犯人焙りだし山狩りされて死ぬ思いだったそうだ。 そのおかげで現地人との交流が出来ず、完全に奥地に隠匿した。現地人と信頼関係取り戻すまでかなり時間がかかった。

*85歳なのに眼力超怖いし背筋は伸びてるし何しろ歯が丈夫。

*思い出に残っているのは、竹を使った水の濾過法と保存法。 竹って物凄く殺菌力あるんだね。 まあまあ久慈川も上流行くと綺麗だけど、わざと川底の泥水汲んで来て 流しそうめんみたいな回路作って丁寧に濾過していく。そして次に筒に切った竹の節を利用する濾過。1日かかるけど1人1日分はろ過できる。

http://lifezero2ch.blog.fc2.com/blog-entry-748.html

小野田さんは2014年、90歳超えで大往生しましたが、
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80歳の時のインタビュー記事では、「人間はひとりでは生きられない」ことと、「不撓不屈」の精神を強調してます。

●一番大切なことは、人間はたったひとりで、社会から離れては生きられないということです。また、ジャングルの中での原始的な生活を通して、思った以上に人間は強いものだということも感じました。必要な物はすべて自分で作るしかないので、創意工夫することが重要になってきます。衣服や帽子を作るための針や糸さえも自然の中にあるもので代用しました。また、自然の中で生きていると、野生化と言いますか、人間本来の感覚も研ぎ澄まされてきます。人間も自然の一部であり、自然の恩恵を受け、自然と共存しているのだということを、強く感じました。特に辛かったのは、雨です。ジャングルの雨は、上からだけではなく、下からも吹き上げて来ます。集中豪雨の続く間は、ひたすら身体を丸め体温の低下を防いで凌ぎました。

●戦前の中国で欧米の文化には接していましたし、新幹線もカラーテレビも、開発が進められているという話は聞いていましたので、物質的な違和感はさほどありませんでした。それよりも、精神的な基盤と申しますか、思想的なものが全く変化してしまったことに、大変な戸惑いを感じました。報道関係の攻勢で、帰還直後はともかく人が怖く、当時の日本には自分の居場所がなかったような気がします。30年の空白を埋め、社会に復帰し順応するにはどうすれば良いか、虚脱状態の日々が続く中、戦後ブラジルに移住していた兄の誘いもあり、ブラジルに渡りました。

●親に反発し17歳で家を飛び出したように、もともと負けん気の強い性格でしたから、常に自分のやることには、自分で責任を持ちたいと思っていました。一度目標を持ってことに立ち向かったら、簡単には諦めない。執念深く、しぶとく、くじけずに頑張ることが信条です。言葉にすれば「不撓不屈」の精神です。

http://www.tokyochuo.net/issue/face/2004/08/

戦前のエリートだった小野田さんにとって、物資的な変化より、
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「精神的な基盤」の変化が大ショックだったようで、

「報道関係の攻勢で、帰還直後はともかく人が怖く、当時の日本には自分の居場所がなかったような気がします」

と語ってますので、先の「気が小さいおじさん」もうなずける話で、粗くなった日本の波動が怖かったのかもしれませんネ。

そして中野学校出身の小野田さんには、実際、尋常ならぬ能力があったことを、コメントで教えて頂きました。

小野田さんにもビッグヘッドな経験エピソードがあり、戦時中に自身が体験した人間が持つ潜在的な能力にも触れていて、本当に命を賭けなければいけないと必死になった瞬間、頭が数倍の大きさに膨らむ感覚と同時に悪寒に襲われ身震いし、直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、あたりが急に明るく鮮明に見えるようになったんだそうです。

「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ1つ1つの脈まではっきり認識することができました。そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして銃弾を避けることさえできると思いました」

命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった瞬間だったとのコトです。

その小野田さんが「自分しか言う人がいない」と、雪男ロマンにとり憑かれた鈴木さんを止める為に、わざわざブラジルから何度も足を運んだけれど、それを聞かずにまたネパールに出かけて死んじゃったんだそうです。

享年37歳で逝ってしまった鈴木紀夫という若者の呼びかけがなければ、
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小野田さんは日本に戻らなかったかもしれず、人とのご縁と同じく、逆らえない「運命」というのがあるようです。

晩年の小野田さんは、すごーく穏やかな「お顔」で、
b9cd079ad20b2da19c1a9a680bad522a-200x300額の広さ、頭の形が、67歳で逝ってしまったペルーの先生によく似ていて驚きました。

このペルーの先生は、南米にいたという「長老の種族」の生まれ変わりじゃないかと思えるほど、不思議な能力の持ち主で、

「欲のない」穏やかな方でしたが、サムライという感じもあり、息子さんの話では、若い頃はかなりアグレッシブだったそうです。

日本人には、オリオンなど「戦う人たちのグループ」の転生が多いという情報がありましたが、

立花孝志氏のテレビが決して言わない森友問題のタブーとサアラさんの「日本人の魂グループの特徴」

意外に思われるかもしれませんが、日本人の魂には戦う人のグループがよく見られます。・・

オリオン系の星に転生していた情報をたくさん持った人たちが地球に生まれてくると、頑固で一本気ですが、どこか優柔不断なところがあって、相反するこの性質を絶妙なバランスで併せ持っています。彼らは何よりも正義が大好き。正義のためとなると、非常に情熱的に労をいとわず行動するようなタイプです。彼らは、さまざまな要素や価値観が共存する地球に生まれてくることで、正義が正義でなくなるパドラックスを何度も経験します。

これらの経験をとおして、やがて正義は、存在しないことに気づき、無評価の世界にこそ人々の心の平安があり、平和や調和が成立することを知るのです。

戦前・戦中・戦後と、「正義が正義でなくなるパドラックス」と、「友人を失う」という悲しみを「何度も経験」した小野田さんが、
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ジャングルで「独りぼっち」だった経験は最後の二年間ですが、

極限状態になった「人間の力」を体感し、そして到達した結論は、

「一番大切なことは、人間はたったひとりで、社会から離れては生きられないということです」

とのことで、経験者だからこそ重みがあるこのお言葉を、日本人はちゃんと引き継いで生きたいものですネ!

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COMMENTS & TRACKBACKS

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  1. 小野田さんはラジオを持っていたので(フィリピンでもNHKとか受信可能)戦争が終わってるのは当然わかってたし、日本の近況も知っていたのに何故こうしているんだと思う?とか、鈴木さんに言っていて、その答えとして命令、任務(マレー山下さんの)を随行しているんだと説明したのですが、だから鈴木さんは「じゃあ、上官を連れてきて、任務を解いてもらえば出てきてくれますね?」と、初対面のとき確認したのでした。

    それまでの「もう戦わなくていいんだぞ~!」みたいな呼びかけにも一切応じず、戦争が終わってるのを知っていながら、かなりの数の現地(フィリピン)人をコロコロしていた小野田さんの任務はかなり特殊っぽいですが、だから鈴木さんは直属の上官をつれて正式な手順(まず、何時いつに命令の解除命令を「口頭で」伝えるので出てくるようにとの命令書を前回鈴木さんと会った周辺に貼りまくった)を踏んでようやくというか、つまり戦争というよりは任務を止めるワケにはいかなかった、といった感じで、それを記者会見で「戦争が終わっているとはまったく思っていなかった。もしわずかでもその様なことを考えていたら~」とかいう表現になったんだと思います。

    そういえば長髪の小野田さんは、北に渡った赤軍派?みたいな感じでしたヨ。

    • マインドコントロールされて「解除」されない状態というのは、ある意味、戦時下だけでない・・ということの見本のような話で、たいへんヒントになりました。今日アップした動画の医師が、障害者も自分だ。。と、言ってましたが、北がこんなにクローズアップされるのも、「コマンド解除」に気づかせる、役割があるのカモですネ。

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