2018年10月の満月は昨日、25日でしたが、
満月になる瞬間が深夜1時45分だったため、
24日の方が、より「まん丸」だった・・ことで、
これは24日夜、八王子の自宅から撮ったもので、
こちらは25日の夜、
どちらも「まん丸」で街を照らしてましたが、
満月前と、後では、エネルギーが異なり、
満月直後は、もう必要ないものを「手放し」ていくのに最適な時期です。
■牡牛座満月にオススメの手放しテーマ
牡牛座の満月は、「豊かになること」や「のんびりすること」に対して抱いている罪悪感の手放しに最適です。
「芸術に親しむこと」や「美食を楽しむこと」への苦手意識や罪悪感もこの満月で手放し&改善を誓っていきましょう。
「美食を楽しむこと」への苦手意識がある人に効きそうなバッチフラワーは、
ビーチやロックウォーターで、
ビーチは、
何事にも批判的で、ケチな傾向がアル人に、
ロックウォーターは、
修行僧のように禁欲的で、自分に厳しい方に効きます。
2000年に、故ペルーの先生と出会った時、その穏やかさと、ほっそりとしたカラダつきからして、
「肉とか食べないんだろうな〜」と、勝手に思い込み、
2001年12月、我が家に初めていらした際、
肉なし精進料理をお出したら、
古代米を入れた「ご飯」をいたく気に入り、
奥様に、
「うちでもコレやって・・」
と、おっしゃってましたが、
息子のペルーラムさんの話では、
若い頃の先生は、たいへん肉好きだったとのことで、
9.11の直後、ペルーで一番の親友が急死し、
臨死体験した先生は、血圧が異常に高い日が続き、
この頃から奥様の指導で、玄米菜食っぽくなってきたそうです。
もっとも先生の方は、全然、血圧を気にしていない様子で、
ヨガの先生いわく、
「あっちの世界を知ってる人だから・・」
とのことで、甘いものが大好きでした。
そして、それから5年後の60歳で「覚醒」しちゃったのですが、
先生から直接聞いた話では、
ある朝起きたら、突然、「世界が違っていた・・」とのことで、
「何か起きても、嬉しくて、嬉しくて、しょうがないんだよ」
「いつか話せる時が来るかもしれない」
と、言ってました。
覚醒した精神科医、ホーキンズ博士は、
覚醒から30年を経てやっと、「語れるようになった」と言ってますが、
ペルーの先生の場合も、「覚醒」以前の方がカリスマ性が強く、興味深い体験談をたくさん聞かせてもらえました。
さて、ご自身では「自分はまだ覚醒してない・・」とおっしゃる、
占星術家でもある「マドモアゼル愛」さんは、
「あっち」の世界と、「こっち」の世界を、こう語ってます。
ともかくあっちとこっちに共通するのが、命と喜び。これ以外にありません。わかりやすく考えた方がいいのです。
命は共通です。命はあっちのものですが、こっちに来て色々なものを作り動かし存続させます。命にエネルギーがあり、意識がそれを運びます。喜びも命と同体であり、喜びの表現が命なのだと思います。
こっちの世界を存続させているのも命と喜びですが、こっちでもそれはあっちのものですので、こっちの世界での命と喜びは、あっちと同じものなのです。
ここに重要なプレゼントがあります。こっちの世で、私たちは泣いたり嘆いたり悲しんだりひがんだり恨んだりしていますが、それらはすべて嘘であり、実体がないのです。それはこっちの世界で劣化し崩壊に入った現象であって、すべて嘘です。不幸も嘘、悲しみも嘘、、、、そんなものは本当にはないのです。
しかし命の喜びはあっちと同じです。こっちの世界でも喜びと命は本物なのです。それによってこっちの世界も存在できているのです。なので、悲しみや不幸は嘘。命と喜びは本物という、まさに福音現象がこっちの世界でも起きているのです。
意識とは、何を見ているかに尽きます。喜びと命をみていれば、私たちはこっちにいながらあっちにいるのと同じです。意識は圧です。意識したものに従って反作用が訪れます。意識が喜びなら喜びが戻ります。悲しみと嘆き、恨みなどを見ていれば、こっちの世界に幽界ができるでしょう。実際にできているわけです。
そこで人はいかに生きるか、、、ということになるわけですが、喜びと命以外は嘘だと捉えられるようになることです。その視点でこっちの世を生きれば、こっちの世もあっちと同様になるはずです。はず、、、というのは、私も到底まだ達していないので、はずと思っているわけです。そこらへんはみなさんとまったく同じか、むしろわかってない方かもしれません。
私も皆さんも、これからもきっと、こっちの世界で悲しいことに出会ったり、不幸な出来事に遭遇したり、どうにもならない恨みを抱いたりすると思います。しかし、そんな際にでも、それは嘘であると知りつつそう思うならば、ずいぶんと違ったものになっていくと思います。逆に喜んだり嬉しかったり命の躍動を感じた時は、それは嘘ではないのです。実体なのですから、くったくなく喜びそのものになればいいわけです。
悲しんでもいいけど、苦しんでもいいけど、どこかでそれを嘘と知りつつ、嘆く。喜びの時は素直にあっちの世界を味わう。そんな風に生きていけば、私たちはそんなには道を大きく間違わない気がします。
「意識は圧です」から、圧が大きくなるほど、
ちょっと「ムカっ」としただけで、大きな「反作用」になるわけで、
覚醒直前が一番たいへんなのは、万国共通なようですが、
「ムカっ」とする感情を抑圧するのではなく、「ソレは自分ではない」ということに気づいていればOKです。
マイナス感情とは、一種のホログラムであり、
ソレが「自分だ」と思い込んでしまうから、罪悪感や劣等感を抱くわけで、
バッチフラワーは、そんなマイナス感情からスルリと抜け出させてくれるツールです。
12年も前のことですが、ペルーラムさんが初めてバッチフラワーを使った際、
寝る前に「レスキュー」を飲んだだけなのに、
朝、起きたらすごい怒りがこみ上げて来て、
「いや〜驚きました!」
と言ってましたが、それからスッキリし、人間関係(恋愛問題?)の懸案事項が解決しました。
「五感」が研ぎ澄まさてる人ほどバッチフラワー効果が顕著なようでして、
ラムさん撮影
「マドモアゼル愛」さんは、私たちの「五感」の深さに応じて、
「あっち」の世界とつながる、国の文化度が決まると言います。
意識からしかエネルギーが来ない、、、というのは、これまでに何度となく語ってきました。また、私たちは肉体を持つものの、本当の自分は意識であるとも語ってきました。それはその通りですが、では、肉体とは何か、改めてとらえることも重要だと思います。
意識論から言うと、肉体の重要性は小さくなりがちな印象ですが、それは間違いです。肉体ほど重要なものはないのです。言っていることにつじつまが合わないように感じられるかもしれませんが、肉体は重要なのです。
肉体はエネルギーをあっちの世界から得て存在しているので、あっちの世界からのエネルギーが枯渇したら肉体は劣化しやがて滅びます。この流れ自体は普遍であり、肉体に限らず、すべての物質も同様です。
物質や肉体はあっちの無の世界からのエネルギーを得て存在しているということは、つながっているわけです。つながりの糸は何かというとそれは意識ですが、もっと平たく言えば、五感なのです。
人間には視覚、臭覚、触覚、味覚、聴覚の五感があります。犬になると聴覚が人間の何倍、臭覚にいたっては何千倍も利くようになります。植物の触覚はすごいらしいです。わずかな風の動き、流れを正確に捉え、光や音にもものすごいレベルで反応するらいしいのです。
このように人間に限らず、動物植物には、なんらかの五感に相当するものがあり、これを通して、生命はあっちの世界とつながっているとも言えます。
話しを人間の五感に戻しますが、私たちがご飯を食べる時、本当はあっちの世界とのつながりの可能性を秘めているのです。私たちが音を聞くとき、あっちの世界とのつながりの可能性を秘めているのです。触る時も臭覚を働かせるときも同様です。
では、すべての場合で人は五感を通してあっちとつながっているのか、、、となると、残念なことにそれは違います。つながる場合もあるし、つながらない場合もあるのです。
文化の重要性はそこにあります。繊細な文化は香りであれ視覚であれ聴覚であれ味覚であれ、すべてあっちの世界とのつながりを予感させるものです。
四季を愛でるとは、視覚で四季を感じ、味覚で四季を味わい、臭覚で四季の深さを知り、触覚で四季と戯れ、聴覚で四季と一体となる、そうした遊びです。
五感を通じてどこまでつながるかは、人それぞれです。浅い味覚にしか至らない人もいれば、深い味覚を察知する人もいる。味覚を通して、無の世界への糸をたぐる人も出てくる。すべての文化はそうやって発展してきたのです。
文化の大元にあるものは、あっちの世界の無以外ありません。こちらの世界の都合で解釈できる内容とは違うのです。
五感を通して、私たちはそうした無の世界とのつながりを体験できるようにできている。無こそが実体であり事実そのものなので、あるものを無いとは言えない。その絶対感覚が、研ぎ澄まされた五感にはあるのです。そのように人間はできている。動植物もおそらくそのようにできている。
つながるものが幽界であれば、いずれ私たちはエネルギーを失い、最終的には狂気に陥ることになる。虚構を事実と思えば、人も虚構に陥るためです。五感が無につながれば、無は実在なのでそういうことは起こらない。ただ高度なエネルギーが入ってくる。
なので、食べる時は、ゆっくりと、味わい、何かを感じ取るようにして食べる、、、それが文化なのです。見る時は、ゆっくりと見、表層にあるものにだまされずにその奥を見つめる、、、音を聞くときは、音がどのように出ているかを深いところで聞き取る、、音を見るという表現や、香りを聞くという表現がなぜあるのかも、奥にある無を見つめる深い文化であるからでしょう。
なので、無とつながる五感となれば、食は少なくてもエネルギーワークとなり、一瞬のしじまにこだます音ですべてを理解させ、香りを聞けば個の意識は飛んで自由になる。
無からしかエネルギーは来ないので、五感で味わうさらに奥の世界を探訪すれば、私たちの生き方はエネルギーワークとなっていくのです。
むさぼれば死が近づき、食の奥を味わえば、たった一口の料理が永遠の命を約束もしてくれるのです。文化の偉大さがここにあります。そしてつながったものは、言葉にすることはできず、いわく言い難いものとなってその人の宝になります。
説明できるものに真実はないからです。
文化の秋の到来です。五感を通じて今年の秋、あなたは何に出会うでしょうか。いわく言い難い体験を共有できる人がいれば、それは人生最高の幸福ともなるでしょう。
ペルーラムさんのお米が美味しいのは、
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彼自身、食べることが大好きで、
父上もそうでしたが、どんな時でも、ゆっくりと「味わって」いただく姿が印象的です。
先週の日曜日、清里の「アルチザン パレドオール」で、
「清里マチス」の和栗ケーキ、500円を奮発したら、
ホント、「五感」を満足させることの重要性を実感し、
昨日、満月の夜、「ベビーマグちゃん」を調べていて、
思いきって、日本製パジャマをポチッとしちゃいました!
パジャマに1万円超えは、「清水の舞台」から飛び降りる勇気でしたが、
味覚だけでなく、皮膚から感じる「触覚」も大切にし、
五感を深めて、「あっち」とつながる、日本の文化度を高めていきましょう!
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