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OSHOと「かじけ猫」と臨床キネシオロジー

OSHOと「かじけ猫」と臨床キネシオロジー

台風18号は、9日昼ごろに東海か近畿付近に接近し、10日未明には日本海側へ抜けて温帯低気圧に変わる見込みですが、

まだ9月初旬なのに、20歳の老猫は「かじけ猫」になりたそうです・・
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かじけ猫

読み方:カジケネコ(kajikeneko)

冬になると寒さをきらって、こたつにのったりかまどにもぐって灰だらけになったりするネコのようす

清里では8月下旬から「コタツ」使う寒さですが、八王子でもかなり寒くて、

家庭菜園している町田の母も「この気候はおかしいわね・・」とつぶやいてました。

オカルト話やSF映画、そして蛇が大嫌いな母ですが、ペルーから帰ってきた不思議な治療士、ペルーの先生が山梨県の南部町に引越して、
DSC_3831こちらのお堂みたいな別館で、
DSC_1147最初に治療を受けた客人が母とその友人で、
DSC_1185釘を一本も使わない見事な和風建築に驚き、
DSC_1213穏やかでパワフルなペルー親子のファンになったようで、
DSC_3834先生亡き後は、息子のラム君に治療をお願いするようになりました。

母が南部町に行ったのは2011年の2月3日。節分だったのでよく覚えています。この時はまさか1年後に、ペルーの先生がこの世を去るとは誰も思ってませんでした。

医者や治療士、セラピストやヒーラーになる動機はさまざまでしょうが、

ペルーの先生の場合は、商社マン1年生でペルーに赴任したとたん「奇跡」の連続ドラマで、

自分の意志とは別に、レールが敷かれて治療士になってしまった人です。

1970年頃、大学時代のサークル仲間だった奥さんがペルーに嫁に行った時、

ペルーの先生はインドの大富豪の豪邸に滞在していて、
3a397413b5aa0b3b59611e12592017d4プール、テニスコート付きで、夜は晩餐会・・

でも、ペルーの先生が初日に新妻を案内したのはペルーの貧困街で、「これが本当のペルーなんだよ・・」と示したそうです。

日本では考えられないような両極端さを1日で体験し、カルチャーショックな奥さんは、晩餐会な生活はスグにイヤになり、小さくてもいいから自分たちだけで住みたい・・と、お屋敷を後にしました。
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大富豪でも庶民でも、病氣に弱いのは同じで、ペルーの先生の治療院には大統領夫人から山に住むネイティヴな方々まで、色々な人が来てました。

誰からも教わらず、ドクターになったこの先生の治療法は、

ペルーの先生に眼差しが似ている、覚醒した精神医学博士のホーキンズさんによると、
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科学(臨床)

臨床キネシオロジー、600
エネルギー療法(手当て療法、鍼治療、気功など)、460
精神分析(フロイト)、460
精神分析(ユング)、460
アメリカの最高の病院、450
薬理学、450
医学、440
内科、440
外科、440
ホリスティック医学、440
精神医学、440
はり、405
東洋医学、395
臨床心理学、380
ホメオパシー、200
http://gorich.jp/blog-entry-398.html

ナント、臨床科学の最高峰と測定された、

臨床キネシオロジー」を使った「エネルギー療法」に近いものでしたが、何とも分類しようがない感じです。

独自の道を歩んでいたペルーの先生が日本にしばしば帰国するようになったのは、

ペルーで一番の親友が急死し、それに続いて臨死体験したことがきっかけでした。

その友人は先生の腕の中で亡くなり、数日後、死の淵まで行った先生は、亡き「父親」が出てきて、その先までは見せてくれなかったそうです。
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自我は自らを肉体と同一視しているので、”死から生還して、それがどのようなものか我々に伝える者など存在しない”と信じています。しかし、それは誤った信条であり、意識レベルが600を越えるとなくなります。というのも、そのレベルでは、前世の記憶や肉体の死を簡単に思い出せるだけでなく、それぞれの末期の意味合いを鮮明に覚えているからです。

一般に意識レベルが200以下の人は、死に対して嘆きや怒り、恨み、喪失感といった反応を示します。けれども200以上の人は死を、意識を向上させることができる学びの機会ととらえます。さらに高いレベルでは、死を、意識を飛躍的に成長させる格好の機会とします。

「死を、意識を飛躍的に成長させる格好の機会」としたペルーの先生が、日本とペルーを3ヶ月毎に往復する生活をし始めたのは9.11直後で、まだ55歳でしたが、

ホーキンズ博士のこの言葉を完全に体現してました・・

「生前の人生に問われるのは、肉体的に何を体験したかでなく、霊的なレベルで何を学んだかです。人生をひと続きのものとして俯瞰することで、さまざまな学びの段階を経て、意識が成長するのを確認することができます。」

それから12年間、いろいろなことを学ばさせて頂きましたが、

55歳〜60歳までと、それ以降の先生はかなり違っていて、

61歳を目前としたある朝、目が覚めたら世界が変わっていたそうで、

「何が起きても嬉しい」状態(覚醒?)で、

以前の饒舌さが別人のように「言葉少なく」なりました。

本を読み過ぎるより、「今」を大切にすることを教えてくれた先生ですが、

息子のラム君の話だと、この「OSHO」や「ラムサ」などは読んでいたそうです。

OSHOって、てっきり日本人かと思ってましたが、

怒っていようが、愛していようが、

そういう自分の意識に「気づいて」いることが大切で、

気づきによって深まるものが「徳」であり、
気づきによって消えるものが「罪」である。

というOSHOの定義はシンプルで、

「特別な修業とか、何もしなくていいんだよ・・」と言ってた先生と似ているカモです。

進歩、向上はエゴのないところで起きる

Q、  愛するOSHO、私はとても多くのグループに参加し、成長に関わる多くの体験をしました。それにより、自分は変わった、素晴らしい洞察を得たと心から思える体験でした。しかし私は未だに、同じ間違いをします。あらゆることをしてきたにも関わらず、過去にしていたことを相変わらず繰り返しており、そこには選択の余地がないかのようです。どうしたらいいのでしょうか? 変化というものは続かないものなのでしょうか? 私たちが自分を成長させるためにしているワークはただの幻想であり、何の意味もないことなのでしょうか?

   最初に言っておきたいことは、自己改善を目的とした努力は、必ず失敗に終わるということだ。それはエゴに問題があるからだ。エゴは、絶えず何かを改善しようと努力する。もっと金を手に入れよう。もっと大きな家を手に入れたい。もっといい車が買いたい。きれいな女を恋人に、美形の男を夫にしたい、とあれもこれも手に入れようと努力している。これがエゴだが、それはあなたもよく知っている。

   だがその一方で、エゴは別のゲームも展開する。
   もっと穏やかに温和になろう。もっと愛情深くなり、悟りを達成しよう。ブッダのようにならなければ、とエゴは言う。だがこれもまた向きが変わっただけで、実は同じゲームに過ぎない。つまり、一方は外にあるもので自分を飾ろうとしていたエゴが、今度は内側のもので自分を飾りたいと考えているのだ。

   だから、あなたが自己改善を試みているのなら、失敗するのは確実だ。
   問題なのはエゴであり、向上したい、こうなりたい、ああなりたいと考えるのはエゴの欲だ。この「~になろう」という考えこそが、エゴの投影なのだ。だが一度このことを理解したら、革命は起こる。その革命は、「あなた」が為すべきことではない。その革命は、エゴの手口を理解することで起こるものだ。

   お金や権力、名声や政治などを追い求めていたエゴと同じエゴ、その同じエゴが今度は内側で瞑想のゲーム、悟りのゲームなどのあれこれのナンセンスをしているとわかったら、一度、それが同じエゴだとわかったならば、まさにその理解においてあなたの中に笑いが起こる。ゲームをすることのばかばかしさを、あなたは感じるようになる。

   向上はない。
   私は変化がないと言っているのではない。変化はある、それも完全な変化がある。だが向上はない。向上とは修正された形を意味する。だが変化は、あなたは同じままだが何かがそこに加わる。それがたとえば、もっといい車、家になり、女性が、男性が付け加えられる。だがあなたはいつもと同じだ。そして今度はそれが瞑想に向けられ、瞑想者になる。だがあなたは同じで、深いところでは以前と同じままだ。

   そして今度はあなたはさまざまなものを溜め込むようになる。
   つまり、性質や特徴、性格、倫理観、徳、知識などをあなたは溜め続ける。それらは車や恋人にとって代わっただけであり、いつものゲームをしているだけで、そこには何ら新しいものはない。こうしたことの中に、向上が起こることは決してない。

   向上は決して起こらない。
   このことがわかった時、つまりこうした欲望である、自分以外の誰かになりたい、もっと大物に、重要な人に、尊敬される人になりたいという切なる欲望を理解し、これらがみなエゴのゲームだと一度理解したならば、その瞬間、突然の変化という目覚しい飛躍、ジャンプが起こる。その時、あなたはもう以前のあなたではなく、新たなものがあなたの中にある。

   いいかな、新しいものは古いものと何のつながりもない。
   だから私は、それを向上とは言わない。新しいものは古いものとは何の関係もなく、そのくらい新しいものは絶対的に、完全に新しい。古い人は完全にそこにはいない。それは過去とのつながりのない、完全に新しい存在であり、この隔たりのゆえに、それを向上と言うことはできない。霊性(スピリチュアリティ)は達成するものではなく、それは野心で獲得できるものではないからだ。

   あなたは「たくさんのグループワークに参加し、成長に関わる多くの体験をした」と言うが、そうした体験は、成長とは無関係のものだった。それは単なるエゴのゲームだった。あなたはそこで満足感を覚え、エゴに褒められてあなたはとても気分が良かった。エゴはそうした体験を利用し、それは絶対的に危険なものとなった。エゴに利用されると、なんでもたちまち毒されてしまう。

http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-a6d1.html

何もしなくていい・・って案外むずかしいことですが、

ホント、晩年のペルー先生はまるで「かじけ猫」のように、
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山梨の家の縁側でお昼寝して、幸せそうでした〜

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