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カルマとは意識の情報チップであり、覚醒すると原因という幻想は消滅する

Q:どこかでカルマについて言及されていますが、もう少し詳しく話していただけますか?

A:宇宙全体とそれに含まれるものすべては、「神の顕在」が単一のカルマとして作用しているものであり、そこではありとあらゆる要素がそれぞれの本質を表現し、成就しています。つまり、生命の体験とは、これらすべてのフィールドが相互に作用するダンスであり、また、それが神より定められた存在することそのものの帰結でもあります。

存在(existence)を与えられたことは、同時に生命の息吹を吹き込まれたことでもあるので、”実在(being)となります。つまり、”実在する(to be)とは、気づきの能力を照らし出す光のように、生命に内在する意識とともに存在するということです。

全宇宙もそこに存在するカルマを共有しているので、「真実の十全性」とは覚醒の実現です。万物が同じ源から発するひとつのカルマだとすれば、そこに分離を見るのは知覚のなせる業です。「真実」においては、ひとつもいくつも同じなのです。
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キネシオロジーを知っている人なら誰でも、カルマに関する質問なら何でも簡単に答えることができます。本質において、個人のカルマは、意識という非物質的な領域の中に存在する情報のパッケージです(コンピュータチップによく似ています)。情報のパッケージの中には、霊的な身体あるいは魂の一部である固有の情報コードが収められています。そのコードは、付随する思考や感情などのニュアンスとともに、過去の体験すべてを凝縮しています。スプリット体は、選択の自由を保持してますが、選択の幅はすでにパターン化されています。

つまり、同じパターンを繰り返す傾向にあることは明白ですが、同時に変化する機会もあたえられています。たとえば、対極性という矛盾を超越することもできます。魂は肉体を持って生まれ変わることも、肉体を離れることも、あるいは霊界を探求し、それゆえに地獄や煉獄をさまよったり、願わくば「愛」や「真理」、神もしくは「救い主」に身を捧げることによって天国に導かれることもできるのです。

プライドと謙虚さのどちらを選ぶかは、個人のカルマに多大な影響を与えます。キネシオロジーに問うことで、ブッダの目的が覚醒を教えることだったということが明確になりました。対照的にキリストは、自らが霊的な存在であることを受け入れていない、すべての魂の救い主として現れました。ブッダは覚醒を教え、キリストは救済を教えたのです。

カルマを理解してないと、現世は不当で残酷なものに映るでしょう。ナイーブな人たちには、悪者が”無罪放免”のままで、善人が虐殺されているように見えるでしょう。そのため、多くの人にとっては信仰がこうした矛盾を説明してくれる支えとなっています。信仰とは、目に見える現象を超えて神性の真実が存在することを確信することです。それはわたしたちの研究と経験に基づけば、十分に根拠のあることだと言えます。

Q:肉体的な死を経験した後、意識のカルマにはどのような可能性があるのですか?

A:それは意識のレベルによって違いがあり、次項のようになります。

200以下の意識レベル=さまざまなレベルの地獄界と低次アストラル界

200〜240の意識レベル=内的なアストラル界(天国:有形の領域)
240〜500の意識レベル=高次元のアストラル界(天国:有形の領域)
500〜600の意識レベル=天界の存在の次元(天国:有形の領域)

600以上の意識レベル=高次元の天界(無形の領域)
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研究により、天国は意識レベル200以上の魂の行き先であり、その天国にもさまざまな領域があり、異なる霊的なグループや信念体系を反映していることがわかっています。昔から、さまざまな宗教は”天国に入るため”の”必須条件”を明記しています。それはまるでそれぞれのグループが”彼らだけ”の天国に行けるかのように聞こえますが、ナイーブな人たちは、それを”唯一の天国”だと思い込んでしまいます。

しかし、さまざまな要因によって霊的な行き先が決まることがわかればほっとするでしょう。各自は、意識の全体的な特徴に合った”ふさわしい”ところに行くのです。信仰や献身はそれ自体が報いとなります。天国にはたくさんの領域があり、それぞれが自分にふさわしい場所に行けるのだということがわかれば、宗教的な争いや対立は、敬意と謙虚さをもって捨て去ることができます。排他性を主張するのは未熟さの表れであり、宗教間に不和をもたらします。

偉大な教師は、誰もが”罪を避ける(犯さない)”ことの重要性を訴えていますが、それは200以下のエネルギーフィールドに属するあらゆるふるまいや態度を避けるということです。そうした行為はすべて、私たちが「地獄」と呼ぶ、非常に苦しい霊界に続く道だと教えているのです。地獄とは、霊的な苦痛や絶望を意味しており、ほとんどの人は現在の人生においても、すでに失望や落胆、怖れ、喪失感、不安といった”地獄界”の上位の苦しみを経験しています。
1000px-Garden_delightsヒエロニムス・ボス『快楽の園』

罪悪感が後悔という苦しみの次元に行き着くことは明らかで、これはどこまでも深みにはまります。地獄のレベルは、ダンテが正確に描写しています。ヒエロニムス・ボスなどの芸術家は、たいてい地獄界の上位の様子を描いており、皮肉なことに(より高い意識レベルと同じで)だんだんとかたちをとどめなくなり、最後には名状しがたい恐怖と絶望という、二度と抜けられない無限の底なし沼に落ちていきます。

低い次元では時間は止まり、苦しみは永遠に続きます。したがって、もし地獄界の下段に入ったとすれば、まさに『永遠に希望を絶て」という標識を突きつけられているような光景を目にすることになります。そこに行き着いた魂は、終わりのない絶望とともに無限の地獄にはまり込み、「神の光」が永遠に、そして完全に届かない場所にいるかのように感じるでしょう。DSC_9564

この人生で、わたしはそのような体験をしました。しかしどういうわけか、無形の永遠の地獄の底から、霊のどこかの部分が生き残り、「神よ、あなたがいらっしゃるのなら、どうかわたしを助けてください」と祈りました。この願いは意識の遠く彼方で、慈しみ深く聞き入れられました。どれほどの時間が経ったのでしょう。意識が戻りました。けれども今度は、自分の感覚が「無限なる神性の臨在」に置き換えられるという、以前とはまったく異なる輝かしい次元にいたのです。

心(マインド)は、存在するものすべての源であり本質である、「神性」の啓示にただ沈黙するほかありませんでした。霊的な真理は、圧倒的な明晰さととに照らし出されていました。分離された個の自己の感覚はすべて消滅し、唯一、「臨在の無限なる十全性」が残りました。それから長い年月が過ぎ、禅のある言葉でこの体験を思い出しました。「天国と地獄は、十分の一インチの差異しかない」DSC_9572

この経験はあまりにパワフルで、それを自分の中で統合し、人に話したり書いたりできるまでには、三十年もの月日を要しました。それについて説明できるような結果が表われるまでは、話すことは何もありませんでしたし、また何と話してよいかもわかりませんでした。そして、その説明というのが『パワーか、フォースか』になったのです。

変容を体験する前はいつも自己が中心にいて、あらゆる行動の原因が自我であった気がします。しかし、この感覚は「臨在」によって完全に払拭され、それに続いて原因という幻想も消滅しました。その代わりに、「神性」によって創造された本質として、すべてが自然発生的に起こるという認識に置き換えられました。万物は、その本性ゆえに、その他すべての本性と相互作用しながら自然発生的に起っているのです。そこに”原因”などありません。活動とは、反応する生命の相互作用的なダンスなのです。

ディヴィッド・R・ホーキンズ著 <わたし>真実と主観性 より抜粋

覚醒した精神科医の歴史的概要①

ホーキンズ博士について

意識のマップについて

イスラム国とコーランの関係

ハリーポッターの仕掛けとネガティブなアトラクター

ソルフェジオ周波数のジョン・レノンの曲と二人のデヴィッド

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