酵素カフェ

「ヤラセ」を無くす鍵、「孤独」と「独りで在ること」の違い

紅葉シーズンはピークをすぎると、

「落ち葉」になるのはあっという間で、5日前は真っ赤だったモミジが、

一昨日の強い風と昨夜の雨で、今日は全部落ちていて、

周囲の紅葉も、ほぼ「終了」ですが、

結果として2022年、清里高原の紅葉はなかなか見事でしたネ。

冬至に向かう、枯葉の季節はちょっと寂しげではありますが、
まあ、自然の摂理ですので仕方ありません。

このところ、日本国内で大きめ地震が起きてますが、あっという間に形成逆転しちゃった米国中間選挙と同じく、もし「自然の摂理」とは言い難い、なんらかの操作があっても、より大きな法則からは逃れられない・・と、

2020年暮れ、米大統領選の不正問題を熱心にウォッチしたことで学習しました。

2022年元旦に知る「トランプ元大統領の靈意識とのチャネリング」

今となっては、あの騒動が嘘のようですが、何事も体験しないとわからないもので、政治って結局、宗教(団体)みたいなモノで、何事も大きな「団体」になると腐ってくる・・摂理があるようです。

とわ言え、政治的無関心もNGで、個人として政治動向を観察する人が増えれば増えるほど、自然の摂理に叶った方向に動くのだと思われ、

OSHOさんの言う「孤独」と「独りで在ること」の違いは、大切なキーポイントだと思いました。

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osho

あなたは独り、完全に独りきりだ。
これは極めて明確に理解されなくてはならない。
人は意識するようになるや、独りになる。
意識が大きいほど、自分が独りであるという気づきは大きくなる。
だから社会、友人、会合、群衆によって、
この事実から逃避してはならない。
それから逃げてはいけない!
それは大いなる現象だ。
進化の過程全体は、それに向かって少しずつ進み続けている。
意識は今や、自分は独りなのだということを知る地点にまでやって来た。
そして「独りで在ること」(アロンネス)においてのみ、
あなたは光明を得ることが出来る。

私は「孤独」(ロンリネス)と言っているのではない。
孤独の感覚は、人が独りで在ることから逃げようとしている時、
それを受け容れる用意の出来ていない時に生じる感覚だ。

独りで在るという事実を受け容れないなら、その時には寂しく感じる。
あなたは自分自身を忘れる為の群衆や、
あるいは何か酔っぱらえるものを見つけるだろう。
孤独は、それ特有の忘却という魔術を生み出す。
もしあなたが、ほんの一瞬でさえ独りでいられるなら、
全面的に独りでいられるなら、自我(エゴ)は死ぬ。

「私」は死ぬ。
あなたは爆発し、もういない。

自我は独りの状態で生き残ることは出来ない。
それは他者との関係においてしか存在出来ない。

いつでもあなたが独りの時は、奇跡が起こる。・・・

独りで在ることこそ、唯一の真の変革だ。

それには大きな勇気が必要とされる。
仏陀のような人だけが独りなのだ。
イエスやマハヴィーラのような人だけが独りなのだ。
それは、彼らが家族から、世間から離れて行ったということではない。
そのように見えるが、そうではない。
彼らは消極的に何かから離れようとしたのではない。
その行為は積極的なものだった。
それは独りへと向かう動きだった。
彼らは離れて行こうとしたのではない。

全面的に独りで在ることを探し求めていたのだ。

探究の全ては、独りで在る時に起こる、爆発の瞬間へと向かうものだ。
独りで在ることの内に至福がある。
そしてその時、初めて光明が達成される。
私達は独りではいられない。
他の人々もまた独りでいられない。
だから私達は集団を、家族を、社会を、国家を作る。
全ての国家、全ての家族、全ての集団は群衆で成り立っている。
独りで在れるほどの勇気のない人々で成り立っている。

真の勇気とは、独りで在る勇気だ。

それは自分は独りなのだという事実、
その他には在りようがないという事実の、意識的な理解を意味する。
あなたは自分自身を欺くことになるか、それとも、
この事実と共に生きることが出来るかのどちらかだ。
あなたは何生にもわたって自分自身を欺き続けることも出来る。
だがそれは、悪循環に陥るだけだ。
独りで在るというこの事実と共に生きることが出来さえすれば、
その循環は断ち切られ、あなたは中心へと至る。
その中心は神性の、全体の、聖なるものの中心だ。

私には、あらゆる人間が生得の権利として、
これを実現し得る時など想像出来ない。
それは不可能だ。
意識は個人的だ。
無意識だけが集合的だ。

人間は、自分達が個人となる意識の地点にまで到着した。
人類というようなものは存在しない。
ただ個としての人間だけが存在する。
それぞれの人間が、自分自身の個人性と、
それに対する責任を悟らなければならない。

私達がしなければならない第一のことは、独りで在るということを
根本的事実として受け容れ、それと共に生きることを学ぶということだ。

どんな虚構も作り出してはならない。
虚構を作り出せば、あなたは決して真理を知ることは出来ない。
虚構とは、事実を知ることが出来ないように考案され、
創作され、でっち上げられた真理のことだ。

独りで在るという事実と共に生きなさい。
もしこの事実と共に生きることが出来るなら、
あなたとこの事実との間にどんな虚構も存在しないなら、
真理はあなたに明かされる。

あらゆる事実は、もしそれを深く究めるなら、真理を明らかにする。
だから自分に責任があるという事実、
自分は独りなのだという事実と共に生きなさい。

この事実と共に生きることが出来れば、爆発が起こるだろう。
それは骨が折れる。
だが、それこそが唯一の道だ。
困難を通して、この真理を受け容れることによって、
あなたは爆発の起こる地点に達する。
その時初めて至福がある。
それが既製品として与えられるようなら、それは価値を失う。
あなたはそれを働いて得た訳ではないからだ。
あなたは至福を感じ取れる受容性を持っていない。
この受容性は修練からのみ生じる。
自分自身に対する責任と共に生きることが出来るなら、
修練が自動的に訪れる。

自分自身に全面的に責任を持つことで、
あなたは修練されたものになるしかない。
だがこの修練は、外側からあなたに押し付けられたものではない。
それは内側からやって来る

あなたが自分に対して取る全面的な責任ゆえに、
あなたの取る一歩一歩は修練となる。
あなたはひとつの言葉さえ無責任に口にすることは出来ない。
自分自身の「独りで在ること」に気づくなら、
他人の苦しみにも気づくようになる。
すると、ただひとつの無責任な行為もおかせない。
なぜなら、あなたは自分自身に対してだけでなく、
他人に対しても責任を感じるからだ。
「独りで在る」という事実と共に生きることが出来れば、
あなたはあらゆる人が孤独であることを知る。
その時、息子は父親が孤独なのを知る。
妻は夫が孤独なのを知る。
夫は妻が孤独なのを知る。
ひとたびこれを知れば、慈悲深くあるしかない。
事実と共に生きることが、唯一のヨーガ、唯一の修練だ。
ひとたび人間の状況に全面的に気づいたなら、あなたは宗教的になる。
自分自身のマスター(主人)になる。
だが、それがもたらす簡素さは、苦行者の簡素さではない。
それは押し付けられたものではない。
醜くはない。

その簡素さは美的だ。
あなたはそれが唯一可能なことであり、他にはやりようがないと感じる。
こうしてものごとを放棄し、非所有となる。
所有したいという衝動は、独りではいられないという衝動だ。

人は独りではいられない。
だから彼は仲間を求めるのだ。
だが他人である仲間は頼りにならない。
そこで彼は、その代りに物の仲間を求める。
妻と一緒に生活することは大変だが、自動車と一緒に生活することは、
それほど大変ではない。
だから最終的に、所有は物へと向かうのだ。
あなたは人を物に変えようとさえするかもしれない。
彼らが人格や個性を失うやり方で、型にはめようとする。
妻とは人ではなく物だ。夫とは人ではなく物だ。
自分が「独りで在ること」に気づくようになれば、
あなたは他の人達も「独りで在ること」に気づくようになる。
そうすると、他者を所有しようとすることは、
侵害することだということが分かる。
あなたは決して積極的に放棄するのではない。
放棄は、独りで在ることの副次的な影になる。
あなたは非所有になる。
その時には夫でも妻でもなく、愛する人になることが出来る。
この非所有と共に、慈悲と簡素さが生じる。

無垢があなたに訪れる。

生の事実を否定する時、あなたは無垢ではあり得ない。

あなたはずる賢くなる。

自分自身と他の人々を欺く。

だが、

在りのままの事実と共に生きるほどの勇気があるなら、

あなたは無垢になる。

https://ameblo.jp/miyairikuro/entry-12213895133.html

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「妻と一緒に生活することは大変だが、自動車と一緒に生活することは、それほど大変ではない」って名言で、

結婚生活は「独りで在ること」を学ぶ絶好の機会であり、

4度も結婚した石屋さん、「何が疲れるって、人付き合いほど疲れものはない・・」と、5日前にいらした時におっしゃってましたが、
この石屋さんは人が寄って来る、社会性の高い方でもあり、

「自分自身に対する責任と共に生きることが出来るなら、修練が自動的に訪れる」の実例のようだと感じました。

バッチ博士が分類した「淋しさと孤独」のレメディーは、ヘザー、インパチェンス、ウォーターバイオレットの3つですが、

新宿南口のおしゃれなCafficeと「淋しさと孤独」

この3つは、結果として「淋しさと孤独」な状況に陥る・・ということで、

例えば、自分のことばかり喋っていると(ヘザー)、周囲から煙たがれますし、

遅いペースに合わせるのが苦手で独りでやりたがるタイプ(インパチェンス)も、プライドが邪魔して助けを求められない人も(ウォーターバイオレット)も、結果として「孤独」な状況に陥る次第ですが、他のレメディーの根本原因にも同じく「自分が独りであるという気づき」が欠けているのは同じです。

例えば、直感的に物事がわかるタイプなのに「他者の同意を必要とする」セラトーというレメディがあり、

セラトーな団塊&プレ団塊世代と1987年から始まった悪夢

セラトーは「内心の不確かさ」に分類されてますが、

ウィキペディアの限界と「内心の不確かさ」

もし、「自分が独りであるという気づき」があれば、他者の意見を気にすることはなく、

セラトータイプは、場合よっては(同意する)仲間を増やすかもしれませんが、結果として「内心の不確かさ」が残る状況に陥ります。

このように、すべてのマイナス感情の根本原因には「独りで在ること」が出来ずに、団体行動好きで「群衆にまみれ」ようと、「引きこもり」になろうと、内心「孤独」であるのに、孤独感を認めようとしない(感じない)自我の防衛があり、

米大統領選って、まるで新興宗教みたいだな〜 と、いつも感じるのですが、

「独りで在る」人間が増えれば増えるほど、自然の摂理として「ヤラセ」はなくなるかもしれませんね〜

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