沖縄・那覇の首里城がまさかの「全焼」で、世界中から「ショックだ」という声が上がってますが、
燃え盛る火の手を目の前にした地元の放送作家の方は、「なんとも言えない現実感」にかられたそうです。
首里城炎上。なんとも言えない現実がありました。昨日のお昼も訪ねていたので、信じられなくて見てきました。北側からの画像です。正殿は崩れ落ちてしまいました。北殿に燃え移っているようでした。見ている人は皆、ショックで立ちすくんでいました。 pic.twitter.com/uAXxeVpOn8
— 賀数仁然 (@hitosak) October 30, 2019
今年早々、八王子宅のすぐ前で起きた個人宅の火事でさえ、現実感が遠のくような・・何ともショックでしたので、首里城崩落を目の前にした現地の方々の動揺は計り知れないと思われます。
また、「龍体文字はレムリアの記憶を呼び覚まさす」と言っていた沖縄の陶芸家の方は、
Facebookにこんなコメントを出してました。
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ハッピーハロウィンの日に起きた、首里城の火災は沖縄の精神世界に対する火の浄化と思います。首里人(シュリン チュ)の気質に対する火の浄化と思います。日本は水火の難に入った。
政府も再建に協力するそうです。県民総意の善意の寄付等を活用して首里城を再建しましょう。琉球列島の象徴の首里城です。首里人の為の首里城ではありません。琉球列島の琉球人の為の首里城でした。私も再建への寄付に参加します。
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「首里人」って言い方初めて聞いたのですが、イタリア・ローマのバチカンのような感じでしょうか?
あるいは、バッチフラワー修行で行ったウェールズでは、
「ここはイギリスではなくウェールズですよ!」って、笑ってるオジさんがいましたが、そんな意味合いでしょうか?
日本と同じく島国のイギリスは、今でもご先祖様のアイデンティティーにこだわる方が多いようです。
何とも長い名称になってしまいますが、これにはイギリスの各王国、つまり、
イングランド
ウェールズ
スコットランド
北アイルランド
が繰り広げてきた壮絶な民族対立の結果、最終的にこの4つの王国が連合王国として「イギリス」と言う1つの国になった事から由来するものです。
そのため、昨年にスコットランドで行なわれたイギリスからの独立への是非を問う住民投票からも分かるように、イギリスというよりも、イングランドからの独立を求めるウェールズ人、スコットランド人、北アイルランド人は未だに多く存在します。
https://money-academy.jp/wales-became-independent-united-kingdom/
元をたどれば「一つ」であることを忘れなければ、それぞれの土地・民族に特有の「文化」を大切にするのはイイことだと思いますが、特権意識や差別・被差別意識はイヤですネ。
昨年3月、初めての沖縄本島で訪問した首里城では、
美味しい「お菓子&お茶」を頂きまして・・
対面に座した女性の二人組み、多分、台湾か韓国の方だと思うのですが、とてもお綺麗で感じが良く、
団体になると、態度がデカくて感じが悪くなるのはどこの国でも同じだと、しみじみ思いました。
さて、何度となく焼失しては再建されてる首里城の「創建年代」は、おそらく13〜14世紀頃とのことですが、
15-16世紀の頃の那覇は、海上貿易が活発で、
これは19世紀の頃の首里・那覇を描いた「首里那覇港図屏風」で、
https://1120kura.at.webry.info/201202/article_4.html
その頃の首里城が描かれてますが、
*太平洋戦争で消失する前の首里城
ナント驚いたことに、日本の国旗も描かれていまーす!!
う〜ん、これ、どう見ても「日の丸」ですよね〜
「日の丸」だけでなく色々な「旗」があり、「琉球交易港図屏風」を直接見た方はこんな感想を記しています。
この3本マストの船には、「接貢」の旗の他、白地に赤い日ノ丸の旗、黒地に白く北斗七星のような図が描かれており、未だ謎です。
その船の下には懸命に競うハーリー舟や、丸に十字の薩摩の旗を掲げる船も見えます。
https://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/470262f1bc951c544006f88e6f3980d0
「琉球交易港図屏風」のことは、こちらの記事のコメントで教えていただきましたが、
父方の祖父は元薩摩藩の士族で歴史の先生でして・・歴史とは、自分たちの都合のいいように伝えられるものですが、
一応、この絵はこう「説明」されてます。
が停泊する那覇港
海人(ウミンチュ)のお祭り・爬竜(ハーリー)競漕で
よく見かける爬竜船(はりゅうせん)も見える。
説明板によると、進貢船が無事中国から戻ってきた
事を喜ぶ様子を描いたものだという。
進貢船の船尾に、日の丸の旗が見える。
「薩摩藩に服属していた琉球王国が支那への進貢船に日章旗を用いており、これは当時の絵図からも確認することができる」(ウィキペディア)
薩摩藩は丸十字ですので、
「日の丸」は琉球王国を示していたことになります・・が、う〜ん、やはり「日の丸」の起源は謎ですねぇ?
いずれにせよ、その頃に那覇では色々な権力が混じっていたのは確かで、「薩摩&幕府」への従属を強いられた一方で、
江戸時代に琉球国王が幕府へ派遣した使節。琉球が薩摩の侵略(琉球征服)に屈した結果,義務づけられたもので,将軍代替りの時に慶賀使(けいがし),新国王即位の時には謝恩使(しゃおんし)を派遣。
1634年の慶賀使にはじまり,1850年まで両使合わせて20回派遣。18世紀初頭には使節の江戸上りが島津氏の指示で中国風の行列に仕立てられ,徳川将軍と島津氏の〈異国〉支配を内外に誇示する有効な外交儀礼と位置づけられた。
「伝統的な中国との朝貢・冊封関係は維持され,直接的な統治主体としての首里王府も存続した」そうです。
つまりイギリスのように、くっきり「分離」して戦ってきたのではなく、
いろいろな文化の交差点となってたのが琉球で、沖縄の方の「琉球列島の琉球人の為の首里城でした」というのは、そういった和する心の象徴だった・・という意味なんでしょうね。
そういえばキネシロジーの名手、ペルーラムさんも、
少なくとも十数年前に行った沖縄は、「戦地になったにもかかわらず、とても波動が良かった・・」と言ってました。
それにしても「君が代」と言い、
日本の起源、歴史はミステリーだらけですネ!
ちなみに首里城自体は何度となく再建されてるわけで、
「世界遺産」となってるのは「首里城跡地」であり、世界遺産取り消し「ない」とのことですが、
太平洋戦争中の沖縄戦で焼失したが、沖縄の本土復帰後の92年に国営公園として復元された。
首里城跡は中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式などに価値があるとされ、2000年に世界遺産として登録された。
個人的には、富士山も含めて「世界遺産」かどうかはあんまり興味なく、
レムリアの民は穏やかで自然と調和する生き方をしていた・・と言われてますが、
幸いにも10月31日、ハロウィンの日に起きた、首里城の焼失は人的被害はなかったようで、
11月1日、いい「日」への先駆けとなる、慎重かつ迅速な再建を願います!
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