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「ドリーマーズ」と「人生、ここにあり!」に学ぶ毒親の共通点と暴力なき世界

ミック・ジャガーもデモにも参加したという「五月革命」は1968年の出来事ですが、

たった2ヶ月間の「五月革命」以降、

若者のファッションは、大きく変わったそうです。

1968年5月、フランス・パリの学生街、カルチェ・ラタンから始まった既存体制に対する「異議申し立て」の運動は瞬く間に仏全土を覆い、ゼネスト(ゼネラルストライキ)に発展。当時のドゴール政権を揺るがすまでとなった。

こうした当時の「スチューデントパワー」の爆発はフランスに限ったものではなかった。ベトナム反戦運動などを背景に、米国や日本などでも同時多発的に発生、当時の若者文化に大きな影響を与えた。その一大ムーブメントから半世紀。今なおその影響はあらゆる分野に及ぶ。当然、「装い」も例外ではない。

服飾史家の中野香織氏は「五月革命は5月3日に始まり6月30日に終わったが、その間に人々の服装ががらりと変わった」と指摘する。

五月革命前夜、男子学生たちの服装は「プレッピースタイル(米国東海岸の学生風スタイル)」に代表される、戦前の保守的な格好。女子も端正なスカート姿が主流だった。ところが運動も最終盤になると、男女ともにジーンズやサンダル、サイケデリックプリントなどが増えてくる。男性にはヒゲと長髪が目立つようになる。

「ジャケットとタイといった装いは、古い体制の象徴とされた。髪形もそう。スクラッフィー(scruffy=英語で『きれいに整えられていない』の意味)というか、男性も女性も髪形をきちんと整え上げることにあまり手間をかけなくなった。装いのユニセックス化が進んだ」

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO30005310Q8A430C1000000/

1988年、当時勤めていた住友林業をフランス留学のため辞職すると申し出したら、支店長から「ファッションの勉強に行くのですか?」とイヤミを言われましたが、元々、再就職した目的が「外国に行くなら長く・・」の費用を捻出するためでした。

男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年ですが、まだまだ結婚退職がフツーな時代に、初めての海外旅行でフランスを留学先にしたのはパリがヨーロッパ交通の中心だからですが、

パリからコートダジュールに降り立った時、すごい開放感を感じて、
あ〜、この海の色を見るためにココに来たんだ・・と思いました。

コートダジュールはイタリア続きで、文化圏としてはイタリア的なんですが、

2018年77歳で逝去したイタリアの巨匠、ベルナルド・ベルトルッチ監督の最晩年の作、『ドリーマーズ』は、

『ドリーマーズ』(The Dreamers)は、2003年のイギリス、フランス、イタリア合作の青春映画。監督はベルナルド・ベルトルッチ。出演はマイケル・ピットとエヴァ・グリーンなど。英国スコットランドの作家ギルバート・アデア(英語版)の同名小説を原作とする。

wikipedia

パリの「五月革命」を舞台にしてますが、「革命」を描いたのではなく、

コクトーの「恐るべき子供たち」を思わせる、

身勝手でセレブな両親の元、自分という核が形成されぬまま成長した「引きこもり」一卵性双生児が「五月革命」に身を投じる「悲劇」を描いており、

「引きこもり」がフツーになっている、ネット世代へのオマージュのように感じましたが、

『ドリーマーズ』の原作者は、ベルトルッチ監督を批判したことがあるそうです。

そのアデアの小説をベルトルッチが映画化したと聞いて、私は興奮を覚えずにはいられなかったわけですが・・・実はアデアは、彼の有名な文化批評集『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす』の中で、ベルトルッチの『シェルタリング・スカイ』に対して、批判的な一文を書いたことがあったのです。

私は『シェルタリング・スカイ』はベルトルッチ作品の中でも特に好きな作品ですし、原作であるポール・ボウルズの小説もまた大好きで、素晴らしいコラボレーションの結実だと思っていたので、アデアの独特の視点からの批判に面白みを感じていました。とはいえ、一度でも公に作品を批判されたことのあるベルトルッチが、その批判をした相手の作品を映画化するなんて・・・勿論、ベルトルッチほどの巨匠が自分の作品への批判を一々気にしてはいないだろうとは思いましたが、私は他人事とはいえ、何ともいえぬ緊張感と期待感を覚えました。そしてそれは、非常に面白い結果へとつながっていっていたのです。

https://cinefil.tokyo/_ct/16883592

「批判」を気にしない大人なベルトルッチ作品で一番印象的なのは「暗殺の森」でしたが、「シェルタリング・スカイ」も「ラストエンペラー」も彼は撮ってます。

人類が主義や理念の為に「暴力」に走ってしまうのは、結局のところ個々の人間の深層心理にあることをベルトルッチ監督は表現しており、

いくら遂行な理想を掲げても、ほとんどの人生とは「思い込み」で彩られた「幻想」あることを、1968年パリ五月革命を舞台にした『ドリーマーズ』で表現したかったのかもしれません。

一般に、「思い込み」と「幻想」の世界に引きこもって、現実社会に適応出来なくなってる状態を「精神障害」と呼びますが、

昨日、魚座満月とともに観た「人生、ここにあり!」は、

地に足の着いた、本当の「革命」が起こりはじめていることを感じさせる、ハートフルでリアルな作品で、かつ、面白かったです!!

日本では、福祉関係で話題になったようですで、イタリアでは興行的に大ヒットした作品です。

この「アール・ブリュット」をあるイタリア映画の中で見付けました。

『人生、ここにあり!』は、精神病院を廃絶する「バザリア法」が1978年に制定されたイタリアを舞台に、精神病院から追い出された「元患者」たちが、一般社会に溶け込んで暮らす、という社会的実験が行われた時代の実話をもとにした人間賛歌です。

舞台は1983年、ミラノ。

主人公の労働組合活動家のネッロはその革新的な考え方ゆえに労働組合から疎まれ、精神病院から追い出された元患者たちでつくる「協同組合」に左遷されてしまいます。

精神病の知識などないネッロでしたが、元患者たちに人間として向き合い、新たな事業を立ち上げるために奮闘します。

病院を出て自由な社会生活を送るどころか、毎日を無気力に過ごしていた元患者たち。彼らがやっているのは、「仕事」とは名ばかりの、「切手貼り」という市からお情けで与えられた「慈善事業」でした。

持ち前の熱血ぶりを発揮せずにいられないネッロは、彼らに「施し」ではなく、「自ら働いてお金を稼ぐこと」を持ち掛け、床板張りの仕事をすることを決めます。・・

これこそ、「アール・ブリュット」!

精神疾患の「弱み」を「強み」にし、これをきっかけに彼らの仕事は180度転換します。

http://eijipress.co.jp/kaorueiga/?p=249

かつてなら、ダ・ビィンチやミケランジェロの弟子として活躍してたカモな方々が、

今は「十把一絡げ」として、薬漬けになってる現状を、

鋭く見抜いたのが、労働組合活動家のネッロで、

同じ左翼的情熱でも、ネッロと『ドリーマーズ』の双子兄妹の違いは、

血縁楽園に閉じこもっているのではなく、

ネッロには、仕事でもプライベートでも、ホンキで喧嘩し合える人間関係があり、

恋人はファッション業界で活躍していて、時々「私の仕事をくだらないと思ってるでしょう!」とキレちゃいますが、

お互い、その違いを認め合って、それぞれの仕事を愛し、全力で投球しているのが好印象です。

精神医学的にも示唆が満載で、誰でもゲージュツ的な板張りモザイクが出来るのではなく、

「左右対称性」へのこだわりがあるダビデのような青年と他3名でやっていたのですが、

ダビデ青年はビィーナスのような施主の女性に恋してしまいました。

ビィーナスもダビデに惹かれ、ホームパーティに招待し、ダビデが口にしているクッキーを「手作りなのよ」笑いかけた途端にダビデは嘔吐してしまい、「手作りには毒がある・・手作りには毒がある・・」と、強迫神経症の発作が起きてしまいます。

ダビデを庇う仲間が暴力をふるったことからパーティはめちゃくちゃになり、警察で「あんなに変わっているとは思わなかった、キスした私が悪い・・彼らを起訴しないで下さい」とビィーナスは嘆願し、起訴は免れますが、それを聞いていたダビデは翌日、自死してしまいます。

ダビデが自立することを不快に思っていた母親は、「あなたのせいですよ・・」と無言でネッロを責め、まさに「毒親」の典型例ですが、

一見「自由人」で放任な『ドリーマーズ』の両親も、幻想の「自我」を守ることに必死で、我が子に「核」をもらさす教育が出来なかったことは共通してます。

失意のネッロは、一度は追い出した精神科医に「仲間」を委ねますが、精神科医はネッロを責めるどころか「明らかな向上が見られた」とネッロのやり方と精神医学がコラボすることを提案し、自死は特定の「誰のせいでもなく」、あらゆるタイミングが重なったからだ・・とネッロを慰めます。

罪悪感に対応するバッチフラワーはパインですが、ダビデが強迫神経症になったのは、

セントーリー(自我が弱い)→ホリー(怒り)→パイン(罪悪感)の循環だと思われ、

「悪夢」が健康にイイ理由と親子関係に多い罪悪感の循環

罪悪感は自分に向けても、他者に向けても、生命を奪ってしまう一番危険な感情ですが、

自分という存在の「核」がナイと、罪悪感に飲みこまれてしまいます。

支配的な母親を憎んでいるダビデが「手作り」神経症なのは、母親を嫌う自分に対しての罪悪感からだったのかもしれませんが、

ネッロの通常パーソナリティは、しっかりとした自我を持つバーベイン(熱中する)タイプで、自分を責めることをやめられないネッロを再起させるのは、恋人と「仲間」たちでした。

恋人も「仲間」もホンキで彼を好きなのは、ネッロが地に足のついたハートフルな活動家だからで、「核」さえあれば、とことん落ち込んだら再起するもので、再起することでダビデもアチラで大きくジャンプすると思われます。

「五月革命」の1968年以降、世界はますます「(経済的に)少数が多数を支配している」構造になりましたが、

この構造を打ち破るのは、決して「暴力」ではなく「愛」であることを、実話に基づいて表現してる「人生、ここにあり!」は、

健常者(と言われている人々)にこそ必見な映画だと、心から思いました!

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COMMENTS & TRACKBACKS

  • Comments ( 2 )
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  1. >一般に、「思い込み」と「幻想」の世界に引きこもって、現実社会に適応出来なくなってる状態を「精神障害」と呼びますが…
    >健常者(と言われている人々)にこそ…

    心理学の先生である岸田さん(日本が世界に誇る?)に言わせると、人類はサルの胎児の段階で止まっていて、動物が本来持っている本能が壊れちゃったので、共同幻想という精神障害にならないと生きていけなかった、みたいに言ってますネ。

    人類は他の動物が誕生直後の無能・無力状態が短いのとくらべて、何も出来ない期間が非常に長く、だから子育てがとても大変だけれど、それをやらない人が出ると困るから、いろんなタテマエ規範、幻想を使って滅亡をさけたりした、とかいった説明です。

    そして通常、子育ては女性が担当するもの、とかいった幻想がまた幻想を呼び、そんなこんなで精神障害になったけれど、たまに本能が呼び覚まされた人が現れちゃうと対応に困って、精神障害者という病気というコトに。。。(・・;)

    わたしはフロイドって、なんかよくわかんなかったんですが、岸田さんの説明でなるほど!と思いました。

    わたしがお奨めするのは、最初の「ものぐさ精神分析」と「幻想の未来」ですかネ。
    たぶん岸田さんは今日の記事のような分野の考察では、その名前のとおりとても秀逸だと思います。

    • 27さん、お久しぶり

      ちょうど岸田さんのことを思い出していたのですよ。

      Mちゃんは和光で岸田さんの授業受けてますが、やはり相当変わってるよーで、鬱で来なかったりしたようです。

      まあ、この世界で鬱な方が正常・・って面もありますけどね〜

      とにかく、グッドタイミングなコメントありがとうです!

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