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「和尚」に学ぶ身体とマインドを越えるたった一つの方法

ダライ・ラマ14世は、若干21歳で「悟り」に至った OSHOことバグワン・シュリ・ラジニーシを評して、

「 OSHOは、人類が意識の発達においての困難な段階を克服するのを助けるために、あらゆる可能性に働きかけている、光明を得たマスターだ」と述べてますが、
CCec0kFUIAAMqh9若き日のダライ・ラマ14世

日本語の「和尚」表記を望んでいた「ラジニーシ」さんが覚醒したのは63年前の今頃です。

ラジニーシは、反逆的な少年時代と学生時代を送った後、大学で哲学を学ぶ。決定的な意識の目覚めもしくは悟り(enlightenment)に至ったのは、
1953年3月21日とされる。

wikipedia

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今日から「彼岸入り」で、ご先祖様が「宇宙から秘密携えて里帰り」する時期であり、

ハッブル望遠鏡が記録した宇宙
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春分の日にはナイスなエネルギーが到来するとの情報もありますが、

「和尚」さんは、知識や情報だけをどんなに蓄えても「意識の変化」は起きないと言います。

「人をほんとうに助けようとするならば、誤解されるのは避けられない。ほんとうに助けようとするつもりがないなら、誤解されることもない。崇拝や賞賛の的になれる。ただ話をし、哲学を説くだけなら、人は怖がらない。彼らの人生に立ち入ろうとしないなら。

複雑な理論や思想体系を人は学びたがる。それなら申し分のない体験になる。それはエゴを強化してくれる。それはエゴを養ってくれる。だれもが知識を増やしたがっている。それは微妙にエゴを肥やす。

だが、ほんとうにだれかを助けるつもりなら、厄介なことになる。いまと違った生き方へと導かなければならない。それは人のエゴの縄張りを侵すことになる。幾世紀もの歴史を背負った習慣や構造を相手にすることになる。これは反発を招く。人々は敵意を向けてくる。人々は怖がる。助けようとする人物を敵と見なし、ありとあらゆる方法で悪評をたて、誤解を広めようとする。

一面的な働きかけしかしない教師たち。彼らは美しい花ではあるが、あまり役に立たない。ジッドゥ・クリシュナムルティは、過去40年あまり、話し続けてきた。人々は彼に耳を傾ける。多くの人が40年以上にわたって彼の言葉に耳を傾けてきたが、彼らの意識にはなんの変化も起きていない。

もちろん、もっと知識は増している。議論や理屈がもっと得意になっている。議論の相手としてなら、とてもよろしい。観念の領域での微妙きわまりない題材を論じるのに慣れている。目覚め、瞑想、意識をはじめとする多彩なテーマについて、こと細かに議論する。とても有能、とても利口になっている。

だが、あいも変わらず凡俗であり、あいもかわらず愚かである。変わったのはひとつだけ。クリシュナムルティから仕入れた知識によって愚かさを隠すことができるようになった。クリシュナムルティは知識人の玩具になった。彼はあえて人々の人生に踏み込もうとしなかったからだ。それをするのはもちろん危険なこと、火を扱うようなことだが。

wikipedia

スピリチュアルな知識というのは下手をすると「机上の空論」になることを言い得てますが、

「和尚」さんは、ただ快楽のみを追求する物資的な人も、頭でっかちな知識人も、

「感じる観照者」にならない限り、死の恐怖を超えて逝くことは出来ないとしています。

そして、また別の種類の人がいる。理想主義者ーマインドに、観念に、イデオロギーに、理想に同一化している人だ。彼はとてもはかない世界に生きているーいかなる意味でも、唯物論者のやることよりよいわけではない。

もちろん、エゴはもっと満たされるだろう。彼は唯物論者を避難することができるからね。彼は神について語り、魂について語る。宗教や、偉大なことについて、あの世について語るーしかしそれはすべて、ただのおしゃべりだ。彼はマインドに住んでいる。

絶えず考え、熟考し、観念や言葉で遊んでいる。彼はマインドのユートピアー偉大で美しい夢ーを生み出すが、彼もまた、機会を無駄にしている。というのも、機会は今ここなのに、彼はどこか他の場所のことばかり考えているからだ。

「ユートピア」という言葉は美しい。それは「けっしてやって来ないもの」という意味だ。彼は、決してやって来ないもの、やって来ることなどありえないもののことを考えている。彼はどこか他の場所で生きている。ここに存在してはいるが、どこか他の場所、二分法の中、二元性の中で生きている。

彼は大きな緊張とともに存在している。政治家、革命家、いわゆる神学者や聖職者たちー彼らはすべて、マインドに同一化した生き方をしているが、真の生は、身体とマインドの両方を超えている。あなたは身体にいるし、マインドにいるが、あなたはそのどちらでもない。

身体はあなたの外側の殻、マインドは内側の殻だ。あなたはその両方を超えている。この洞察こそ、真の生の始まりだ。

どうすればこの洞察を始められるだろう。

観照し始めてごらん。通りを歩くとき、観照者になるのだ。身体が歩いているのを見守ってみなさい。もっと内なる核心から、ただ見守り、観照し、観察する。突如として、あなたは自由の感覚を手にするだろう。突如として。身体は歩いているが、あなたは歩いていないのを見るだろう。

身体には健康なときもあれば、病氣のこともある。見守ってごらん。ただ見守っていれば、突如として、あなたはまったく違った存在の質を感じ取るだろう。あなたは身体ではない。身体はもちろん病むが、あなたは病んでいない。身体が健康でも、それはあなたとは何の関係もない。

あなたは観照者、丘の上の見張りだ・・はるか超えている。もちろん身体につながれてはいるが、身体に同一化してはいない。身体に根づいてはいるが、つねに超えている、超越している。

最初の瞑想は、あなたを身体から分離させる。そして少しずつ、身体の観察がもっと鋭くなったら、今度は絶えずマインドの中で続いている思考を観察し始めてごらん。けれども、最初は身体を見守ることだ。それは粗雑で、より楽に観察することができるし、大した気づきは必要ないからだ。ひとたびあなたの調子が合ったら、マインドを見守り始めなさい。

何であれ、見守ることのできるものは、あなたから分離する。何であれ観照できるものは、あなたではない。あなたは観照している意識だ。

あなたが観照者となるとき、身体とマインドもまたずっと遠くにとどまる。突如として、あなたはそこに在るー身体もなく、マインドもなく・・純粋意識、ただ純粋なるもの、無垢なるもの、鏡として。

この無垢さの中で、初めてあなたは本来の自分を知る。この純粋さの中で、初めて存在が生となる。初めてあなたは在る。その前には、あなたはただ眠って、夢を見ていた。今やあなたは在る。

そしてあなたが在るとき、死は存在しない。

そうなれば、あなたは自分の死をも観照するだろう、と分る。生を観照できるようになった人は、死を観照できるようになったのだ。というのも、死は生の終わりではないからだ。それはまさに絶頂、まさに頂点なのだ。

生は死の中で頂点を迎える。

ひとたび死の何たるかを知れば、あなたはそれを大きなる祝祭とともに受け取る。あなたは歓迎するだろう。死はあなたの一生の努力の成就。あなたの一生の努力の結晶なのだ。旅は終わる。人は家に帰る。

死において、あなたは死にはしない。

ただ身体とマインドを通してあなたに与えられたエネルギーが解き放たれ、世界へと帰るだけだ。あなたは家に帰るのだ。

もし正しく死ななかったら、あなたはふたたび生まれてくるだろう。さて、これについて説明させてほしい。あなたが正しい死に方をしなければ、死というトータルなオーガズムを達成しなければ、あなたはふたたび生まれてくるだろう。あなたは逃したからだ。だから別の機会が与えられなくてはならない。

ケチな人はこぶしを握って死ぬだろうーいまだに執着し、しがみつきながら、いまだに死なないようにしながら、いまだにくつろがないようにしながら。

愛に満ちた人は、手を開き、分かち合いながら死ぬだろう・・生を分かち合ったように、死さえも分かち合いながら。この人が一生を少しも油断せず、気づきを持って生きてきたどうか、顔に書かれたすべてから見て取ることができる。

あなたが死ぬとき、あなたのエネルギーは解放され、そのエネルギーとともに、あなたの一生の体験が解き放たれる。何であれあなたが体験したものー悲しみや幸せ、愛や怒り、情熱や慈悲、あなたの体験のすべてーそのエネルギーは、あなたの生全体のバイブレーションを運んでいる。

聖者が死ぬときはいつでも、ただそばにいることが、大いなる贈り物になる。彼のエネルギーを浴びるだけでも、大いなるインスピレーションだ。あなたはまったく別の次元へと投げ込まれる。あなたは彼のエネルギーで我を忘れ、酔ったように感じるだろう。

死はトータルな充足になりうる。しかしそれが可能になるのは、生が生きられたときだけだ。

お彼岸にピッタリな、2015年発行のこちらの書からの抜粋ですが、

「これまでのOSHOの本の中でもっとも実用的な一冊」との解説通り、充実した内容です。DSC_6546

「和尚」さんは60歳にも満たないでこの世を去りましたが、

日本人だけどペルーで不思議な治療士になっちゃった故「ペルーの先生」がよく、

「治療をする人は、話(カウンセリング)もしてたら60歳までは生きられないよ」と言ってましたので、順当なところでしょう。

そのペルーの先生も2012年4月、67歳でピンコロで逝ってしまいましたが、

「悟った人は、他者に迷惑かけないで逝く」

との通り、見事な逝き方でした。

あまり本は読まない先生でしたが、晩年、OSHOは時々読んでいたとのことで、
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精一杯、「今」を生きた人は、「死はトータルな充足になりうる」を実感させてくれた恩師に感謝です。

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