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真実と主観性は究極のスピリチュアルかもしれない

真実と主観性は究極のスピリチュアルかもしれない

昨日から玄関先の金木犀が花盛りでいい香りですが、御嶽山噴火では4人の死亡が確認され、専門家は「噴火が今の規模で収まるかどうかは分からず、むやみに近寄らないことが重要だ」と言っていますが、正直、

昨日記したように予兆はあったのだから、もっとはやく警戒すれば良かったのに、とは思うけど、先のことはわからないし、間違いを避けて断定を避けたい気持ちもわかります。

ところで、噴火のあった日、清里で不思議な生物を発見しました。

コレなんですが・・
KC3O0034帽子かぶったレース編みのキノコ!
KC3O0037

前回行った時に見つけた不思議な丸い茸が、変容したモノのようです。
DSC_8535 9月20日の状態はまん丸だったのですが・・マリモ似のオーストラリアの未確認物体と清里の丸くて白い茸

引っこ抜いて割ったりして中身も調べて、その形状からオニフスベだと確信したのですが大きな間違いでした!

1週間たったら全く違う形状になっていて、まだ成長しきってない状態だったのです。
KC3O0033少しずつ尖って、変容していくキノコのようです。

で、このレース編みキノコの正体なんですが、なんと、キノコの女王のようです!(断定は一応避けておきます・・)

「キヌガサタケ」は姿形があまりにも優雅で繊細なことから「キノコの女王」と呼ばれています。味が良いのに発生量は少なく、見ることも味わうことも難しい、言わば幻のキノコです。
http://www12.plala.or.jp/ohmiya/kinugasatake.html

1週間前とは、まるで違う姿に変身したわけで、途中段階で安易に「わかったつもり」でいた自分を反省・・早とちりはいけませんねぇ。

しかしこの経験は、この本の大切なポイントを理解するのに役に立ちました。
DSC_8618Amazonで高値の中古でしか買えないこの本、八王子図書館で取り寄せてもらいました。

「はしがき」から、そそられる内容です。

覚醒(光明)という根源的な主観状態は、歴史的に伝えるのが困難であると同時に、理解するのも容易ではありませんでした。(中略)

真理の体現者が、通常の人間の意識が理解できるような説得力や雄弁さを持ち合わせて、その後も世界と有意義な交流を持ち続けられるのは稀なことで、せいぜいその圧倒的な主観的状態を説明するのがやっとでした。

この作品がユニークなのは、覚醒の状態がその後も言語の雄弁さを失わなかった人格に起こったということです。

その人物は数年間の苦労の末、通常の意識レベルを再び自分のものとしてマスターしました。(中略)この作品がさらにユニークなのは、覚醒という内的な主観的状態を十全に描写しているだけでなく、覚醒にいたるまでのあらゆる意識レベルの前進の様子を網羅しているからです。

2003年1月 アリゾナ州、セドナ

編集者 ソニア・マーティン

で、大切なポイントとは、人間とはどんなに賢くても間違えるモノであり、その理由は自我(マインド)であり、自我は騙されやすいモノなのです。

質問:どうして霊的な探求に苦労はつきものなのでしょうか?

自我は、何でも概念化するという習慣があります。自我を解体するためには、まずその実態をつかむ必要があります。自我を持っていることに対しては、なんら罪悪感を持つ必要はありません。そのために、まずは自我の起源を探ることが有効でしょう。

意識の進化という店で、人間は非常に困難な立場にいます。わたしたちは伝統的に、この地上にはじめて出現した生命は、”泥”から生まれたごく原始的な有機体であったとイメージしてます。生命発祥の起源までたどれば、有機体は生存のためにさまざまな挑戦を突きつけられたと察することができます。自我の基本的な動機や機能は、実は非常に単純明快です。それは動物の生態を見てもあきらかです。

人間の生命も、あらゆる動物的な生存戦略を内在しています。縄張り意識、異種間の競争、集団優位性、狩猟、敵の殺戮、求愛行動、子の養育と保護、同胞間の抗争、威嚇、支配などです。それらに加え、攻撃や危険に対する怖れもありますし、群れや集団からの追放の怖れもあります。こうした動物的な習慣は、本能と呼ばれる、生理的、感情反応の中に深く根付いています。

そして、数千年以上の時を経て、本能は洗練され、社会や両親からのしつけや教育によって、行動パターンとして定着していきました。この行動パターンは、個人にとどまらず、多分に社会の行動様式として強化され、政治的、国家的、司法的な立ち位置および価値観として形式化されました。知性は生存のための重要なツールとなり、それが発展するにしたがって、わたしたちに内在する動物的なプログラムのすべてを巧妙に書き換えていきました。意識自体は、そもそも何のプログラムも持たないまっさらな状態です。あらゆるプログラムは、意識というハードウェアにインプットされたソフトウェアのようなものです。

しかしいくら知的になったとはいえ、生存パターンの基本構造が動物的であることは今も昔も変わりありません。今日の教育でさえも、生存と成功のために行われています。つまり、自我の生得的な動機は、生存と獲得であり、どちらも怖れを基盤にしています。

人体のメカニズムも、生得的に苦痛か快楽かでしか反応しない脳の仕組みや神経科学によって統御されています。この自己作動型の脳の報酬系は、回避しなければならないもうひとつの罠です。人間の知恵は、この報酬系を利用して、人工の報酬/快楽物質を発明しました。たとえば脳を脆弱にし、再プログラミングしやすい状態にする麻薬類などがそうです。脳は元来中毒に弱いという遺伝傾向があり、それまでの人生の目的がすべて影にひそめ、ほかのものに入れ替えられてしまうのです。

さらに悪いことに、こうしたふるまいやプログラミングされた行動のすべては、それぞれのレベルで人類全体のエネルギーフィールドにエネルギーを発信しています。これらは通常ではアクセスすることのできない影響の領域で強化されていきます。そして、そのプログラムを支持するようなメディアやあらゆる人間のコミニュケーション手段を通じてさらに強化され、社会の承認や不承認を問うことになります。

ここで自我の生物的起源を述べたのは、わたしたちがそれを作り上げたというよりは、むしろそれを持って生まれたということを明確にするためです。自分自身を含め、誰も好んで自我を作り出したわけではないとわかれば、その罪悪感から解放され、自分自身や他者に対してもっと思いやりを持つことができます。

同じようなことを、こちらのデーヴィッドさんも言ってましたね〜

「渇望スポット」を刺激する「神経マーケティング」

肉体コンピュータがどのように反応するかプログラムされた内容に基づき、日々の生活に反応しているのは、細胞(DNA)に保存された情報である。人々が「悪癖」と言っているものの大半は、遺伝相続もしくはダウンロードされ、肉体コンピュータで動作しているソフトプログラムである。真に根源意識に目覚めることによってのみ、我々はこの循環を断ち切り、自分自身の人生をコントロールできるようになる。その状態になれば、選んだとおりにこの現実を経験する道具として肉体コンピュータが根源意識に奉仕するようになる。

一般的に中毒(依存症)は、肉体コンピュータの現象であり、その仕組みさえ理解すれば、中毒、反応、思い込みを誘発するようなプログラムを埋め込むことができる。(中略)そこがいったん刺激されると、対象が何であれ、さらに多くの嗜好物を欲しがるようになる。「神経マーケティング」という完全に新しいセールス手法の分野があり、さまざまな脳の部分を標的にすることで、望ましい反応を引き出し、消費者に自分で自由な選択をしていると思わせる。これと同じ技術であるが、商品マーケティングに従事している人々よりも遥かに巧みな専門家たちによって、人間は個人レベルでも集団レベルでもコントロールされている。

私たちが、心と思っているモノは自我であり、自我が思い描く神とは異なる「自己 Self」とは、自らの存在の核心として顕在化した神だというホーキンズ博士の真偽の見分け方は、一切の思考を排除したキネシオロジーであり、

自分が知っている唯一の覚醒体験者、ペルーの先生の方法と同じです。もし、ペルーの先生との交流がなかったら、この本の価値はわからなかったと思うし、アイクさんのインボー論を知ったことも理解に役立ってます。

まだ全部は読んでないこの本の、いたるところに故ペルー先生の言葉や振る舞いと同じオーラが漂っており、これは本(情報)以上のものかも知れません。

まあ早とちりのないように、読み終わったらキネシオロジーテストするつもりですがねぇ・・

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