3月最終日、清里高原の朝は氷点下で、
玄関先に出て、西側を見たら、
八ヶ岳が出てましたが、朝散歩するにはちょっと寒く、
一昨日の雪はほとんど溶けてますが、あたり一面、霜柱が立ってまして、
しかしながら、チューリップの葉も出てますので、やはり「春」ですネ!
同じ寒さでも、もうすぐ「春」だと思うと、気が楽になるもので・・冬場の八ヶ岳ブルーがお名残惜しく感じます(笑)。
さて、なかなか春が来ないウクライナ問題。日本メディアは、まるでトランプさんとプーチンさんが対立してるかのような報道をしてますが、
プーチン氏に「非常に怒っている」…トランプ大統領、ロシアのせいで停戦合意なければ「石油すべてに追加関税」
事実は、戦争を終わらせようと尽力している米国新政権に対して、ゼレンスキーさんを祭り上げたDSグローバリスト達が抵抗している状態で、
ゼレンスキーさんは完全に、(DSグローバリストの)操り人形ですね〜
ゼレンスキーさんだけでなく、欧州の「操り人形」達は完全に狂っている・・のに、
なぜか、日本メディアは伝えてない状態で〜す!
【速報】ゼレンスキーは米国の提案を全て拒否
う〜〜ん、昨年の米大統領の前、バシャールさんのチェネリング情報では、
米大統領選が女性だったら「オープン・コンタクト」で、男性なら「アメリカの終焉、第三次世界大戦」だと予言してましたが、ソレってこういう意味だったのでしょうか?!
まあ、よくよく考えるてみると、旧勢力の「抵抗」は想定内ではあり、
今、地球で起きてることは、外側の事象にいちいち反応しない訓練だと、ここ1週間、ちゃんとバッチフラワーを飲んでいたせいか、思えるようになりました。
で、私の歯肉炎は気にならないレベルまで落ち着き、旦那さんの「ギックリ腰→坐骨神経」もだいぶ良くなり、
我が家に渦巻いていた「ホリー」が、だいぶクリーンになった感じなんですが、
国と国の争いも、家族内での諍い事も、エゴとエゴのぶつかり合いであるのは「同じ」であることを、
OSHOさんは「十の禅の逸話」で講話してくれていて、
「勝ち」「負け」にこだわると、「まったく橋がない」コミュニュケーションになることを、
「討論・一夜の仮の宿」という、日本の禅寺の「たとえ話」で語ってます。
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議論はすべて、無益で愚かしい。議論自体が馬鹿げている。議論や討論から真理に達したものはいない。一夜の借りの宿くらいにはなるが、それだけだ。だからこそ、そうした伝統が生まれた。この伝統は素晴らしい。何世紀もの間、日本の禅寺ではどこも、宿泊するためには議論しなければならなかった。議論に勝てば、その晩は泊まれる。
これはとても象徴的だーーたった一晩だけということが。朝には発たなければならない。この伝統は、議論、論理、論法からは、決して目標に達することがなく、一夜の借りの宿くらいにしかならないと示している。一夜の借りの宿をゴールにして、自分をあざむいてはならない。出発しなければならない。朝には再び、自分の足で立って行かなければならない。
だが、多くのものが自分自身をあざむいてきた。論理から達成したものごとを、ゴールと思い込んだ。一夜の仮の宿を究極にした。彼らは進まない。朝が何度も過ぎては行った。けっして、論理から真理に至ることはないが、仮の結論は出る。論理から、真理に近づくこともある。しかし、真理そのものに至ることは、けっしてない。
覚えておきなさい。真理に近いものもまた、偽りだということを。一体、それは何だというのだろう? 真理か、真理でないかのどちらかしかない。中間はない。真理か、真理でないかのどちらかだ。それは、半分だけ真理と言うことはできない。そんなものは存在しないーー半分の円環が存在しないように、まさに円環いう言葉自体が、全体を意味するからだ。半分の円環は存在しない。半分であれば、円環ではない。
半分の真理は存在しない。真理は全体で、断片的な真理は存在しないし、部分的な真理はない。真理に近いというのは、ごまかしだ。論理が導くのは、ごまかしぐらいのものだ。一夜の借りの宿にはなるーー 床についてゆっくりするくらいの。だが、それを自分の家にしてはならない。朝にはまた、出発しなければならない。旅をそこで終えることはできない。毎朝、何度も何度もそれが始まる。論理に、論法にくつろぐがいい。だが、そこにとどまってはいけない。しがみついてはいけないーー 行かなければならない。それをいつも覚えておきなさい。
議論は暴力だ。議論で殺すこともできるが、蘇らせはしない。議論は命を与えられないが、殺害できる。議論は真理を殺せる、だが、復活させられない。議論は暴力だ。まさにその姿勢が暴力的だ。実のところ、求めているのは真理ではなく、勝利だ。勝利が目標になると、真理が犠牲になる。真理が目標になれば、勝利をも犠牲にする。
勝利ではなく真理が目標であるべきだ。勝利が目標であれば、あなたは宗教的な人間ではなく、政治家になっているからだ。攻撃的に、何とか他人を圧倒しようとしている。どうにかして支配しよう。牛耳ろうとしている。だが真理は支配しない。真理は決して他人を破壊しない。他人を打ち負かすという意味において、真理が勝利することは決してない。真理は人を謙虚、控えめにする。それはエゴ・トリップではないーーだが議論はすべてエゴ・トリップだ。・・
真の探求者たちなら、真理をもって両者を勝たせる。議論する者は、勝利を他人のものではなく、我がものにしようとする。真理において、相手は存在しない。真理において、人は出会い、ひとつになる。だから誰が勝者で、誰が敗者になれるだろう? 真理において、打ち負かされる者はいない。真理においては、真理が勝ち、人は敗れる。だが議論においては、わたしはわたしであり、あなたはあなただ。そこにはまったく橋がない。
相手に反対していて、どうやって、その相手が理解できるだろう? できるはずがない。理解するには、共鳴しなければならない。理解するには、関わり合わなければならない。理解とは、相手の話に完全に耳を傾けることだ。そうやって初めて、理解が花開く。だが、議論し討論し、主張し、判断すれば、相手の話は聞いていない。聞いているふりをしているだけだ。深いところでは、準備している。すでに、次に向かっている ーー他人の話が止んだところで何を言おうかと。どうやってやりこみようかと準備している。相手の話は聞かずに、どうにかやり込めようとしている!
実のところ議論や討論において、真理はたいして重要ではない。だから、議論で意思の疎通は測れないし、議論で心は通じ合わない。主張はできる、だが主張するほど・・離れて行く。主張するほど隔たりが広まり、深い溝ができる。出会いの場はない。これこそ、哲学者や知識人が通じ合わない理由で、彼らは大いに主張する。だから、深い溝がある。彼らは他人と通じ合うことができないーー不可能だ。
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さて、この逸話の禅寺は、勉学に励む学識ある兄と、愚か者の弟で営んでましたが、兄は過度の勉学でとても疲れていたので、弟に「一夜の仮の宿」を求める放浪僧の討論相手を任せました。
そしてこの討論は言葉ではなく、終始「無言」のノンバーバル(non-verbal)コミュニケーションで行われたのです。
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言葉は詐欺師だ。人は、明らかにするためではなく、隠すために話す。だから、沈黙して相手を見るのだ。どうやって立つか、どうやって座るか、どんな様子か、どんな身のこなしをするか。肉体の言葉は、頭の言葉より真実を示している。肉体の言葉は極めて自然で、源泉そのものからやってくる。だから肉体の言葉で騙すのは、とても難しい。なにか話しても、顔では別のことを言っている。「わたしは正しい」と口で言っても、あなたの目、物腰、立ち居振る舞いが、自分が間違っているのはわかっていると語る。口では確信のあることを言っても、体は震え、違っていると物語る。
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ノンバーバルコミュニケーションの達人は、ワンニャン達で、
ベンガル・ピノちゃんも、夫婦間が険悪になると、スグに姿を消しちゃいます(笑)。
それに対して、自我(エゴ)の強い人間は、外に向けて言葉を発してなくても、常に自分の頭の中で「独り言」しており、
学識ある放浪僧と愚かな弟のノンバーバルコミュニケーションは、「まったく橋がない」コミュニュケーションとなりました〜
学識ある放浪僧がまず、無言で指を1本立てたのは、1本指でブッダを象徴したからなんですが、
愚か者の弟は、その1本指は、自分が片目であることを象徴してると思い込み、怒りにかられます。
しかし客人だから・・と、ぐっと我慢し「客人の目は二つある」という意味を込めて指を2本立て、
学識ある客人は、その2本の指を「ブッダとその教えを象徴」してると理解(誤解)し、今度は「ブッダとその教え、その信奉者を象徴」の三つを示して、指を3本立てたのですが、
片目の弟は、その3本の指の意味を「二人で目が三つだ」という、さらなる侮辱と受け取り、怒りのあまり正気を失い、客人にガツンとゲンコツをくらわせます。
で、結局、学識ある客人が、そのゲンコツで「負けた」と退散したのは、暴力に屈したのではなく、学識ある兄にこう語りました。
「賢い弟さんが、その三すべてがひとつの理解からなると示し、わたしの顔面に、こぶしを振るったのです」
このように「立ち位置」が違うと、全然、噛み合ってないコミュニュケーションとなる次第ですが、この逸話の要点は、賢い人も愚かな人も、誰もがエゴの色眼鏡で世界を「見ている」ということで、トラウマや劣等感コンプレックスが強いと、特別に濃〜い「色眼鏡」となります。
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彼は傷を追っている、いたるところで侮辱を見つけ出す。誰も、あなたのことなど気にかけてはいない、だが、劣等感を持っていると、侮辱するものを探すようになる。それと決めつけているので、そのように解釈してしまう。 他人が「ブッダ」と言っても、片目しかないと指をさしていると思い込む。・・
誰かが笑うーーあなたのことではない。あなたは一体誰だと言うのか? どうして自分が世界の中心だと思うのだろう? これがエゴイストというものだ。通りを歩いていて、誰かが笑っても、自分が笑われていると思い込む。 どうしてあなたを笑うのだろう? 一体、あなたは誰だ? なぜ、自分が全世界に中心にいて当たり前だと思うのだろう?・・
これまでわたしは、わたしに対して怒っている人に出会ったことがない。多くの人が怒っているが、わたしに対してではない。わたしは世界の中心ではないからだ。なぜ人々がわたしに対して怒ることがあるだろう? 人々は怒っているーーしかし、それは何か、彼ら自身と結びついているのであって、わたしとは関係ない。・・
誰もが、自分自身の過去を通して生きる。覚者(ブッダ )たちだけが、現在に生きる。他に現在に生きるものはいない。
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OSHOさん曰く、
「あなたは他人と全く通じていない。あなたは自分自身と通じている。これが狂気だ。狂気とは他人と関係せず、内側に入り、過去と新たな瞬間、過去の体験と新たな体験を繋げて解釈し色づけすることだ」
とのことで、
欧州首脳だけでなく、自分自身も時々「狂ってるな〜」と思いますが、その状況を認識して、「笑う」ことが出来ると「変容」がもたらされます。
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兄は笑った。兄には両方の見地が見てとれた。彼には、学識のある放浪僧が、弟に何も語らなかったこと、身ぶりで語らなかったことが見て取れた。意味されたことが、愚かな弟には全くわからなかったのが見て取れた。 彼ら2人は通じ合わなかったーー深い溝があった。橋はなかった。彼らは討論し、決着をつけた。1人は打ち負かされ1人は勝利者となった。だが 出会いは全くなかった…一瞬たりとも。兄は笑った。
この笑いは光明にもなる。この笑いは、深い理解とも、変容ともなる。この笑いが、弟や放浪僧の愚かさに対するものではなく、状況全体についてであったからだ。いかに頭が働くか、2つの頭にいかに出会いがないか、2つの過去にいかに出会いがないか、いかに2つのマインドが常に離れたままであるかーーその2つは、出会う方法が全くなく、合流することもない・・弟や放浪僧を笑うのではなく、全状況を笑うならーー弟や学識ある放浪僧を笑うなら、その笑いは光明にはならない。彼は同じままだーーだが、 全状況を笑うなら、いかにマインドが働くか、いかにマインドが論争するか、いかにマインドが表にけっして出ようとせず、それ自身の内側にこもり続けるか、いかにマインドが、常に開くことなく閉じているか、いかにマインドが、ただの内側の夢であり、悪夢であり…
彼がそれを理解すれば、この笑いは粉砕となる。桶全体が落ち、水は流れ出るーー 水たまらねば、月もやどらず。
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自分にとってバッチフラワーは、単に「気分が良くなる」薬ではなく、感情(マインド)を認識して、「開く」ためのツールなんですが、まだまだ「円環」には程遠いと感じています。
そして、「円環」には程遠い・・のは世界情勢も同じなようで・・トランプ政権となり、「部分的」なディスクロージャーは期待出来そうですが、「部分的」では真理に至りません。
とわいえ、たとえ「一夜の仮の宿」であっても、以前より進歩しているのは確かで、せっかくまともになった米政権が、「愚かで狂っている」欧州首脳に負けないことを祈ります!
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