毎年「6月21日〜7月7日頃」が夏至シーズンで、
日本では梅雨時の時、太陽光が最強になり、
これは2022年6月13日、朝4時頃、八王子郊外からの朝日ですが、
2022年は「寅年」で、
2021年「丑年」に、ベンガル・ピノちゃんが来ましたが、
丑寅の北東は鬼門で、時刻では「真夜中」を象徴しますが、寅年は「夜明け前」なので準備が大切とのことです。
これを方位に例えてみますと、子はちょうど北の位置です。そして、丑と寅は北東です。北東は風水でいうと鬼門です。つまり、我々は今、鬼門にいるわけなのです。鬼門にいるということは、よくない時期。今はコロナ禍で、決していい時期ではありません。また、「丑三つ時」という言葉があるように、2021年の丑年は現代の時刻に例えてみると、午前2時から2時半ごろまでの真夜中なのです。
十二支では「寅」の次は「卯」であり、卯の方角は東。東といえば太陽が昇る方角です。だから、寅年はちょうど夜明け前というわけです。現代の時刻に言い換えると、午前3時から午前5時ぐらいまでの間。夜明け前の寅年は、「陰極まりて陽となる」という言葉があるように、まさに、冬が去り春に向かうという年なのです。つまり、夜明け前で今は真っ暗かもしれないけれど、朝日が昇るまでに準備をしておく時期です。この準備ができる人とできない人では、運が違います。こんな時期だからこそ焦るのではなくて、準備をする。その準備をした人には必ず明るい夜明けが来ると信じています。
https://www.vogue.co.jp/lifestyle/article/2022-year-of-the-tiger
そして来たる「太陽が昇る方角」卯年に向けて、
ウサギさんのように、ぴょんとジャンプするために、
2022年寅年は、草の根レベルでのサポート体制が大切とのことで、
では、どのような準備が必要なのかについてお話しします。
トラという動物は、草木から威勢よく飛び出してくるイメージがあり、「千里行って千里帰る」と言われるほど、勢いと行動力があります。だから、寅年には行動を起こすことが大切なのです。
しかし、行動を起こすということはデンジャラス(危険)なことでもあります。そして、デンジャラスなことをするということは、必ず失敗が伴います。ただ、寅という字には「ウかんむり」があり、これは「家」「家族」「仲間」「組織」を表します。つまり、前進をするために行動を起こして失敗をしてしまったときに、「あなたをサポートしてくれる家族、仲間、同僚はいますか?」ということが問われる年になるのです。
この流れは実は子年から始まっていました。2020年はまさに種をまく年。2021年の丑年は、その種が土の中で根を張る時期。そして、2022年の寅年はその種が地中から勢いよく芽を出す時です。しかし、まだ芽の状態ですから、結果は出ません。けれど、今後その芽が成長していくかどうかは、下で支えてくれている根の部分、すなわち、あなた自身を支えてくれる人たちがどれだけいるか、ということなのです。
https://www.vogue.co.jp/lifestyle/article/2022-year-of-the-tiger
確かに・・これからはグローバリズムより、安定したローカルエリアが大切ですネ!
さて、今回八王子に戻ってきた目的は、父親の「卒寿祝い」のためで、
漢字の「卒」の略字は「卆」であり、「九十」に分解できることが「卒寿」祝いの由来とされています。
長寿祝いは平安時代に中国から伝わったもので、1,000年以上の歴史があります。
しかし、当時90歳まで生きる人は非常に少なかったため、卒寿祝いが行われることはほとんどありませんでした。
88歳の米寿の時、ちょうど「コロナ自粛」まっ最中だったので、卒寿でやろう・・となった次第ですが、
この2年間で母親の衰え方が激しく、場所を決めたりすることが「出来ない」と言うので、
ネットで探したところ、玉川学園駅前の「レ・ミレジム」という店を見つけ、誕生日の4日前、6月12日に予約しておきました。
両親と弟ファミリー、7人が揃うのは十数年ぶりで、隠れ家的な「レ・ミレジム」は個室なので、気兼ねなく過ごせ、
3つ年下の弟は転勤族で福島にいて、就職2年目の甥っ子(一人っ子)は茨城に赴任となり、弟の嫁は南町田で一人暮らしですが、ご飯作りから解放されたせいか、とても元気そうです(笑)。
今回予約したのは10品6600円のコースで、旬の国産素材を取り入れていて、
懐石料理みたいな、芸術的なフレンチでした〜〜
埼玉の枝豆
富士のヤングコーン
千葉の鰹
信州のサーモン
千葉のミル貝
岩手の紫うに
長野のとうもろこし
長崎の鮑
宮城の黒毛和牛
そして、デザートは石垣島のピーチパインで、すべてメチャ美味しく、
見た目もお味も創意工夫が素晴らしく、とうもろこしのスープにコーヒーの香り・・エクセレントです!
コーヒーもちゃんとしたエスプレッソで、しかもパリの三つ星レストランのように、
コーヒーのお供のガトー付きです!
量ともども大満足な「宴」で、予約した時は、来れるかどうかわからなかった唯一の孫が来れて、お爺ちゃんはご満悦でした!
そして最後の〆で、90年生きてきて一番怖かったのは、目の前で爆弾が落ちたことだと話してました。
戦争中、父一家は鹿児島市内の草牟田にいたのですが、草牟田で焼けなかったのは父の家だけだったので、沢山の人が寝泊まりしていたとのことです。
何でも米軍は、八幡の帰り際、余った弾を鹿児島に落としていたそうで・・
第二次世界大戦中の1944年6月16日未明、アメリカ陸軍航空軍第58爆撃団の戦略爆撃機B-29が行った初めての日本本土空襲。九州北部の官営八幡製鐵所を第一目標とし計75機のB-29が出撃、うち47機が八幡市などを爆撃した。製鐵所の被害は極僅かだったが、爆撃は北九州5都市(八幡、小倉、戸畑、門司、若松)におよび、270名以上が犠牲となった。米軍側報告では作戦中の事故で5機のB-29が損失、2機が日本軍機により撃墜とされた。これに対し、日本側報告では撃墜6機(内不確実2機)、撃破7機、日本側被弾機1機と報じられた。
目標の八幡製鐵所コークス炉への命中弾はなく、空襲自体は不首尾だったが、同日サイパン島に米海軍の上陸を許したこともあり(サイパン島の戦い)、大本営は八幡空襲の報に衝撃を受けた。一方でアメリカや中国ではこの空襲の成果が大々的に報道された。作戦中B-29の収集した情報によって日本本土の防空体制の脆弱さが明らかとなり、その後の大規模な本土空襲の発端ともなった。
八幡市は、1944年8月20日に中国から飛来したB-29によって2度目の空襲を受け、さらに翌1945年8月8日の3度目の空襲(八幡大空襲)ではマリアナ諸島基地発のB-29が焼夷弾爆撃を行い、罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸 死傷者は約2,500人の壊滅的な被害を被った。
1945年、父は13歳の誕生日の翌日に大空襲に見舞われたのですね。
第二次世界大戦末期にアメリカ軍によって行われた、鹿児島県鹿児島市と周辺に対して行われた都市無差別爆撃の総称。鹿児島市に対する空襲は1945年(昭和20年)の3月から8月にかけて8回行われており、合計で死者3,329人、負傷者4,633人の被害を出した。・・
鹿児島県は本土最南端に位置しているうえ、知覧、万世、串良などの特攻基地を設けられていたため、地方都市の中でも鹿児島市は特に空襲が激しかった。
6月17日、120機のB-29がマリアナ諸島から発進し、午後11時、鹿児島市上空に飛来。6月17日の空襲で死者2316人、負傷者3500人、市街地の44.1パーセントが損壊し、最終的な死者は3300人、市街地の93パーセントが焼失した。
内藤氏情報によると、広島に原爆が落ちたのは「大本営」をつぶすため・・とのことでしたが、
犠牲になるのはいつも、何も知らない一般庶民で、父は自分の体験から「ウクライナの人たちの気持ちがよくわかる」と言っていました。
宴の最中、一時的に大雨が降り、雷も鳴ってましたが、店を出る時は晴天で、
夕方、八王子に戻ったら月が見えましたが、6月14日は射手座の満月ですネ。
母親いわく、この「卒寿祝い」がすご〜くストレスになっていたとのことで、お父さんのために「やらなきゃいけない」圧が強かったのでしょうが、無事終わってホッとしたようで、いい場所を見つけてくれたと喜んでましたが、
「レ・ミレジム」はエレベーターのない3階にあり、かなり急な外階段を昇り降りをしますので、90歳と86歳、一応、昇り降り出来る両親に感謝で、
ウチはあまり結託の強いファミリーではありませんが、自分も弟も鹿児島ルーツの血を受け継いでますので、
たまには(強調)、家族一同が揃うのもイイかな〜と思いました!
お父様卒寿のお祝いおめでとうございます。
ご両親様お元気で何よりですね、フラワーレメディ―ここにあり!でしょうね。
見習いたいものです。
aoiさん、ありがとうございます。
長生きがイイかどうかはともかく、バッチフラワーのおかげで、何とかで〜す(笑)。