人口密度の高い先進国でありながら、日本のコロナ感染者は欧米と比べて極めて少ないのは確かで、
その理由かどうかはともかく、日本人と欧米人の際立った違いとして、
日本人は対人恐怖
欧米人は対神恐怖
だと、「人間とは本能が壊れた生き物」であるとする、
フロイド研究の心理学者、岸田秀氏は言い、
また、恐怖と恐怖症は違うことも強調しています。
恐怖が恐怖症となるのは、恐怖を自我から排除し、恐怖が自我にとって異物となるときである。すなわち、恐怖を感じている一方で、そのような恐怖は感じるべきではない、不合理だ、非現実的だ、馬鹿げているなどと思いはじめるときである。
恐怖症は一般に、現実的根拠にない不合理な恐怖だとされているが、何が合理的恐怖で、何が不合理な恐怖であるかの一般的基準があるわけではなく、もしあったとしても、それは当人が恐怖症になるかならないかとは無関係である。はた目でどれほど不合理な恐怖と見えようとも、当人がそう思わず、その恐怖に対してどういう反応をするかどうかはさておき、とにかくその恐怖それ自体をおかしいと見ていないならば、恐怖症は成立しない。恐怖症が成立する条件は、ある対象に対する恐怖と恐怖の否定との葛藤である。
たとえば、先祖を敬い、死後あの世で会ったときに先祖に顔向けできない事態にならないように日頃心掛けている老人は、死んでしまった先祖のことなんか気にして、やりたいことを我慢するなんて馬鹿げていると思っている若い人から見れば、まさに「不合理」な先祖恐怖に囚われているわけであるが、当の老人自身には何の葛藤もない。彼がこの若い人の意見を入れて「不合理な」先祖恐怖を抑圧しはじたとき、彼は「先祖恐怖症」になるのであろう。・・
対人恐怖が対人恐怖症となるのは、当人が対人恐怖を感じまいとして、人に変に思われる危険が全然ない自分のあり方を想定し、それに無理に合わせようとするとか、人とつき合いたいのに、変に思われる危険を避けるためにつき合いわないとか、あるいは、どれほど変に思われようが、平気であろうとするとかのときである。
つまり対人恐怖症には、「対人恐怖とその否定との二つの要因」があるわけで、
恐怖している自分を認めないから「恐怖症」になる次第です。
本来、日本人気質は恥かしがりやで、「対人恐怖」の性向があり、
しかしながら「対人恐怖」が「対人恐怖症」になっちゃったのは、明治以降の西洋的価値観との葛藤からで、
欧米人には、近代以前も近代も「対人恐怖症」が少なく、ごく近年になって増加してきたのは、
これまでの欧米人の自我を支えてきた「一神教」の地位が揺らいできたからだと思われます。
そして、日本人には意味不明な「対神恐怖」がミックスして、非常に不安定な欧米人が多くなってきたようです。
そういった意味では、今、欧米社会はアイデンティティの根底を揺るがす危機にあるわけで、おかしな人が増えているもの頷けます。
で、日本人に多い「対人恐怖症」になる人は、実は「人が好き・・」だと言われていますが、
人間が好きだからこそ、他者にどう思われるかが気になるのですネ。
そして、日本人の「自我」を支えているのは「母子関係」から形成される対人関係であり、
それに対して、西洋人の自我も「母子関係」から始まるにせよ、彼らは早期から「母子関係(甘え)」を断ち切って、個人として神とつながることが奨励される「父性社会」であり、
日本は、欧米とは全く違う原理で機能している「母性社会」であると、ユング研究の故河合隼雄氏も言っています。
というわけで、「本能が壊れた」モロい生き物である人間の「自我」のウィークポイントが異なる次第ですが、
日本人は対人恐怖
欧米人は対神恐怖
を、大いに実感したのは、コロナがまだ出始めの頃、感染者が出た場所に行ってしまい、
自分が感染したとは全く思いませんでしたが、なんだか複雑な心境になりました。
結局、予定していた外出を取りやめたのは、会う人の(たとえ気にしない人だとわかっていても)気持ちを憚ると面倒になったからで、そう言う意味では、自分もやや「恐怖症」気味なのかもしれません。
人間に飼われてしまった動物達にも、やや「恐怖症」的な問題行動が起きることがありますが、
「自我」の抵抗のない、動物達にはバッチフラワーがよく効きまして・・
6歳で引き取ったベンガル猫のピノちゃんに、
「恐怖心」を「勇気」に変えるミムラスを飲ましていたら、
このところすっかり落ち着いてきて、
この数日間、夜もゲージに入れないで、家中を自由にさせてますが、
今朝方、寝室のドアを開けたら、ピノちゃん、お座りしてドアの前で待っていて、
旦那さんの寝床に行って「ゴロゴロ」鳴いてましたので、すっかり慣れたようです。
まあ、あいかわらず、自分の尻尾を踏んでるドンな子ですが、
「ガブ猫」度は、どんどん低くなっています!
そんなピノちゃんに、先週の金曜日、ちょっとした異変がありました。
6歳までブリーダー&ペットショップ育ちのピノちゃんは外の世界を全然知らないわけで、
バルコニーに出る時も「そろそろ」な感じで、
子猫の時から育てた「クレ&マメ」の時と違って、脱走には注意を払ってなかったのですが、
金曜の夜、9時頃、実家から戻って、私だけ先に車を降りて玄関の扉を開けたら、ピノちゃん、トットっと・・と外階段を降りて行き、左隣のお宅のガレージに消えちゃったのです!
左隣のお宅には猫ちゃんが2匹いて、たまにウチの庭に来てますので誘われちゃったのでしょうか?
「ピノちゃん〜ピノちゃん〜」と呼びながら、ガレージ周りを探しても全然いなくて、そのうち、お隣の猫ちゃんの1匹が出て来ましたが、ピノちゃんはどこにもいません!
今まで外に出たことのない(と思われる)ピノちゃん、かなり心配な状況ではありますが、
3月19日は「思考は144000倍にエネルギーが増幅する」という情報を思い出し、
パニクらないようにしていたら、右隣の家のガレージからピノちゃん出て来ました。
時間にしては15分くらいでしょうか、所用を済ませた旦那さんが戻った時は、ピノちゃん、
いつも通り家にいたのですが、ホント、危なかったです〜〜
最初の愛犬を事故で亡くしたトラウマもあるので、自分にとってペットの危機はコロナよりも「恐怖」なんですが、やはりポジティブに構えた方がイイと実感した次第で、
人間は、大きな脳を持ってしまったがゆえに「本能が壊れて」しまいましたが、
大きな脳だからこそ、感情を「統御」することも可能であり、
それは「恐怖症」をもたらす、感情の「抑圧」とは全然違います。
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『当人が対人恐怖を感じまいとして、人に変に思われる危険が全然ない自分のあり方を想定し、それに無理に合わせようとするとか、人とつき合いたいのに、変に思われる危険を避けるためにつき合いわないとか、あるいは、どれほど変に思われようが、平気であろうとするとかのときである』
いつも冷静で、とても落ち着いて見える人が、単に「ドン感」だったり、「抑圧」してる人だったり、
あるいは欧米人的に、他者を必要としない自我の持ち主なのかもしれず、
恥かしがりやで、人間が大好きだからこそ「対人恐怖」傾向が強く、
そんな自分を「現代的な西洋モデルに合わない」と卑下することで、「対人恐怖症」に陥るわけですが、
「対人恐怖」になりやすい人は、心情の機微に敏感なアワ型が多いようです。
よーするに、近代以前の日本社会は、生命力の基本であるアワ量が豊富な社会だったのに、
(表現が上手な)欧米的サヌキ型がもてはやされるようになり、
この度の「コロナ騒ぎ」は、ムラ社会にまだ残っている「対人恐怖」を浮き彫りにした感がありますが、
「対人恐怖」と「対人恐怖症」の違いと同じく、感情を統御して、
「コロナの恐怖(実態)」と「コロナ恐怖症」の違いを、正しく認識することが大事なのかもしれません。
いずれにせよ、岸田秀氏が指摘する、
「明治以降の近代日本人には、対人恐怖症が多く見られ、そして、欧米人には近代以前も近代にもそれほど見られない」
という相違点は小さいことではなく、なぜ、日本にはコロナが少ないのかのヒントになり、
これからの日本は欧米のモノマネではなく、コロナの問題を含めて、日本独自のやり方を模索した方がイイことを示唆していると感じました。
日本でコロナが少なかったのは、単にあまりバラ撒かれてなかったからだと思いますヨ。
(いま撒かれてるっぽいけど、それはオリンピック中止の口実の為だと思われる)
それと日本のモノマネ(サルマネ)は中韓とかと違い、世界に誇れる偉大な独自文化だと思いますけどネ。(>_<)b
バラ撒き・・誰が??ケムですか??
確かに、日本は加工文化ですネ!