車の中など、デジタルな時計をふと見ると、4時4分とか、やたらとゾロ目が多いな〜と感じるのは、
単なる「選択的注視」なのかもしれませんが、
これはつまり、ゾロ目には(注意を引く)吸引力があるということで、
「ワンワンニャンニャンの日」で「いい夫婦の日」でもある11月22日の新型コロナ新規感染者数は110名で、感染拡大が止まらない先進諸外国の情勢とは対照的です。
それはともかく、コロナ茶番にインチキな米大統領選、マスコミも政治の世界もここまでヒドイとは・・と、うんざりしていた昨年暮れ、
旦那さんの両親のお墓参りの帰りに寄ったペットショップで「ベンガル猫・里親募集」をしていて、
(もう)ワンニャンを飼うつもりはなかったのに、ピノちゃんに惹かれた要因の一つには、
11月22日というゾロ目誕生日もあり、1月5日に引き取ったのですが、
そのペットショップはナント、1月17日に閉店しちゃいまして・・
1月17日は猫好きだった義母の命日でもあり、呼ばれたんだね〜 とか旦那さんと話しています。
昨年暮れ、八王子宅で「ネズミ」騒動があり、冗談で「猫でもいれば・・」から始まったのですが、
Y姉さんいわく、ネズミが出たからピノちゃんが来たのではなく、逆とのことで、
まあ確かに、ピノちゃん、ネズミ除けには貢献しませんでしたが、
結果としてネズミは全くいなくなり、「いったい、アレは何だったのだろう?」と夢でも見ていた感じです。
というわけで、今日11月22日はピノちゃんの誕生日で、
ブリーディング猫として、沢山の子猫を産んだピノちゃん、
めでたく、7歳になりました〜
猫の7歳は、ヒト年齢的には44歳とのことで、
猫年齢 ヒト年齢
5歳 36歳
6歳 40歳
7歳 44歳
8歳 48歳
ヤンママで頑張った分、楽しい老後を過ごさせてあげたいですね〜
義父は犬好きで、家には常に「捨て犬」が居て、旦那さんは幼稚園の頃から大きな犬を散歩させていたとのことで、
幼稚園の先生から「あんな大きな犬を大丈夫ですか?」と連絡が来たそうですが、全然、大丈夫で、
今でも犬にはやたらと好かれるのは「経験知」ですネ。
さて、コロナ&ワクチン騒動で「経験知」のナイ有識者の言うことはアテにならないな〜 と、あきれると共に、
「なんで皆さん・・打つの?」的な、自分のエゴを見る機会ともなり、
黙々と、自分の道を進むことの大切さを実感しましたが、
21歳で覚醒したOSHOさんいわく、その道はあまりに狭いので「マインド」頭と一緒では通れないそうです。
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哲学はジグザグに進む。宗教はまっすぐだ。・・
宗教が存在との関わりにおいてまったく異なる次元を持つのはこのためだ。ジグザグに進むことーー分析すること、解釈すること、哲学にしてしまうことーーに慣れてしまった者だちは、猫という猫、犬という犬をどこまでも追いかける。彼らは路という路を延々と調べ、我と我が身を疲れさせ、それでいて、どこにも行き着かない。彼らには方向感覚がまったくない。
素朴な人、純真な人はただまっすぐに進む。
そしてイエスはこうも言う。「道はまっすぐで狭い」と。
なぜ狭いのだろう? その道はあまりに狭くて、あなたのエゴを収容できないからだ。あなただけは行くことができるーー。が、あなたのエゴは外に、扉の外に置いておかなければならない。その道はひじょうに狭く、二人が共に歩くことはできない。子どもを一緒に連れてゆくことはできない。年老いた母親を一緒に連れてゆくことはできない。恋人を一緒に連れてゆくことはできない。
仏陀のような人ですら、あなたを連れてゆくことはできない。
ブッダたちにできるのは道を示すことだけだーー。その上を二人で歩くことはできないからだ。道はそれほどまでに狭い。人は独りで行かなければならない。単独者へ向かう単独者の飛翔。あまりに独りなので、エゴすらあなたのもとにはない。あまりに独りなので、マインドすらあなたのもとにはない。そして完璧なまでに独りなので、”自己”すらあなたのもとにない。
あなたはまったき静寂として、消えゆく人格として、現れてくる臨在として、そのなかに入る。
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どんなに親しい間柄でも、個々の選択を尊重することを学んだワクチン問題でしたが、
「単独者へ向かう単独者の飛翔」って、イイお言葉ですね。
ネコ族のように「単独行動」が好きだからといって、「まっすぐで狭い」道を通れるとは限らず、
通常、独りで居ても、常に「エゴと一緒」なんだけども、
「独り」の時は「エゴと一緒」であることが気にならなくても(気づかない)、
誰かと居ると「鏡」となって押し寄せて来ますので、人間関係は常に学習の場で、
特に家族は「逃れがたい」修行の場だと実感しており、
OSHOさんの「神経症を食い物にする者たち」は、実に的を得てましたが、
「神経症」とはつまり、「自分自身に満足していない」ことだと言います。
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この世界には神経症にかかった人しかいない。フリードリッヒ・ニーチェは、すべての人が神経症にかかっていると言ったというーー。たとえあなたが自分ではそうではないと思っていても、それは別の種類の神経症にちがいない。とにかくあらゆる人が神経症にかかっている。
神経症とは何か? 自分自身と一緒にいると幸せではないことが神経症だ。自分自身に満足していないことが神経症だ。そうなったら、あなたは騒動やもめごとに巻き込まれる。そうなったら、あなたは心の安らぎすべて、生の喜びすべてを失う。あなたは悶えながら生きる。そうなったら、あなたは自分で地獄を創りあげる。
ふつうになりなさい。それは私の教えでもある、もしそれを教えと呼べるならだがーー。というのも、今日に至るまで、教えは、あなたがたをどこかふつうではない目的に駆り立ててきたからだ。だが、覚醒した人に尋ねたら、彼らはつねにこう言ってきた。ただふつうでありなさい、と。もがいていてはならない。奮闘せずに生きるのだ。手放しで生きるのだ。そうすれば、自然があなたを乗っ取る。あなたの生は臨機応変になる。あなたは瞬間から瞬間へと生きるーー従うべきイデオロギーや結論を持たずに。あなたは結論を持たずに生きる。各瞬間が独自の現実(リアリティー)をもたらし、あなたはそれに応える。あなたは、自分の全一(トータル)な存在から応えるーー。あなたの身体の全細胞とマインドと魂がそのなかに巻き込まれている。
そうなったら、あなたはけっして後悔することがない。どうして悔やむことができるだろう?あなたが全一に応えたのだ。だから、たとえ何が起こってもかまわない。他のことは起こりえなかったのだから。あなたは全力をつくしたーー。あなたは全一に応えた。・・悔やむのは結論を通して生きる人々だ。そうなると、ひとつのマインドが「これをやれ」と言い、別のマインドが「あれをやれ」と言うーー。数多くのマハトラたちの言葉を聞き、本をたくさん読み、多くのイデオロギーや教師たちの言葉に耳にしてきたので、それらのすべてのものが、彼らのマインドのまわりをうろつき、マインドに自分を押しつけようとしている。
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『自分の全一(トータル)な存在』を感じはじめると、変な不安感がなくなるんですネ!
「自分が嫌いなんです・・」というお言葉を、バッチフラワーの臨床の場でよく聞きますが、
よく聞くと、すべてが「嫌い」なのではなく、自分のこういう部分が嫌い・・とのことで、
時々は「好き」で、時々は「嫌い」になる状態は、パートナーに投影されます。
鏡が手に入る。あなたは自分の顔を、その鏡で見ることができる。そして、相手は自分の顔を、あなたの鏡で見ることができる。
ところが、二人とも腹を立てている。なぜなら、二人とも醜い顔を見るからだ。当然、二人はそろってどなり合う。というのも、彼らの自然な論理は「私がこんなに醜く見えるのは”おまえ”、この鏡のせいだ。そうでなかったら、私はとても美しい人間だ」となるからだ。
それは、恋人たちが解こうとしつづけながら、解くことのできない問題だ。彼らは何度も何度もこう言っている。「私はこんなに美しい人間なのに、私がひどく醜悪に見えるのは、おまえのせいだ」と。
あなたが醜く見えるのは、誰のせいでもないーーあなたは実際に醜いのだ。許して欲しい・・が、実情はそうだ。相手に感謝するがいい。相手にありがとうと言いなさい。なぜなら、彼は、あなたが自分の鏡を見るのを助けてくれるからだ。腹を立ててはいけない。
そして、自分自身のなかにもっと深く入ってゆきなさい。瞑想のなかにもっと深く入ってゆきなさい。・・
愛の内にあるときに、瞑想を忘れてはいけない。愛では何ひとつ解決しない。愛は、あなたが誰であるか、あなたがどこにいるかを示すだけだ。そして、その愛があなたを注意深く、あなたの内部の混乱と混沌のすべてに注意深くさせることはいいことだ。今度は瞑想をするときだ!
もし愛と瞑想が共に進めば、あなたは両方の翼を得るだろう、あなたは均衡を得る。
そして、その逆もまた起こる。瞑想のなかに深く入りはじめると、いつでも人は愛を避けはじめる。なぜなら、もし愛のなかに入っていったら、瞑想がかき乱されてしまうと思うからだ。それも間違っている。瞑想はかき乱されえない。瞑想は助けられる。なぜそれは助けられるのか?愛は、依然としてどこに問題があるかを、それらがどこにあるかを、あなたの示しつづけるからだ。愛がなければ、あなたは自分の問題に無意識的になる。が、無意識になっても、あなたがそれらを解決したことにはならない。鏡がなくても、それは、あなたにまったく顔がないという意味ではない。
愛と瞑想は手を携えてゆくべきだ。それこそ、私があなたがたと分かち合いたい、もっとも本質的なメッセージのひとつだ。愛と瞑想は手を携えてゆくべきだ。愛と瞑想。瞑想と愛ーー。するとあなたは、新しい調和が徐々に自分のなかに湧いてくるのを見るだろう。その調和のみがあなたを満足させる。
「いい夫婦の日」生まれのピノちゃん、
そのお顔がなんだか、
この家で21歳まで生きた、トラ猫クレちゃんに似てきまして・・
血縁ではない夫婦の顔つきが似てくるように、ペットも似てくるのでしょうか?
このように、異なる同士が、同じ「場」を共有する影響はすこぶる大きく、
繊細かつ完璧主義者であればあるほど、鏡を見るのが耐え難たかったりしますが、
そういう意味では「いい加減」な方が幸いで、
こららのOSHOさんのお言葉は、1978年の講話からの抜粋ですが、
その講話での最後の質問、
「あなたのメッセージを要約するとどうなりますか?」
に対してのアンサーは、
「テイク・イット・イージー」とのことで、
何事も「意識的」、かつ、気楽にヤルのがイイとさとった「ワンワンニャンニャン」「いい夫婦の日」でした!
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