酵素カフェ

「光明を得る」方法とマインドの「繰り返し」かもしれないコロナ騒ぎ

11月も終盤になると、もうすぐ冬至・・という気分になりますが、

11月24日の八王子は、真っ白な富士山が一日中見えてる晴天で、

あと1ヶ月足らずで「新生」する太陽が、

キラキラ朝日で輝いてました〜

つい2日前、11月22日に7歳になったベンガル・ピノちゃん、
旦那さんの観察では、最近「妙に大人しい・・」とのことで、

確かに、朝から「まったり」してますが、

ご飯もちゃんと食べてますので体調が悪いわけではなく、「落ち着いた」のではないでしょうか?

今年初めに我が家に来てから週に2日は「お留守番」だったのが、

このところ、ずっ〜と一緒になり、安心しきってるとか?

沢山の出入りのあるペットショップやブリーダー宅では、落ち着かなかったのかもしれず、

いずれにせよ、なんとも可愛らしい寝顔のピノちゃんで〜す!

さて、首都圏に地震予報が出ていた11月22〜24日の期間に清里から八王子に来たのは、

今日、11月24日に「粗大ゴミ」を出す予約をしていたからで、無事、回収されました!

30年も住んでいると、捨ててOKな不用品が沢山あり、捨てるとスッキリしますが、

「断捨離」ブームで、物理的にはスッキリしても「頭の中がごちゃごちゃ」状態の場合もなきにあらずで、

若干21歳で「光明を得た」OSHOさんは、尼僧 千代能に起きたことを例にして、

「光明を得る」方法なき方法を示してます。

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尼僧 千代能は何年も学んでいたが、光明を得られずにいた
ある晩 千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた
歩きながら 彼女は桶の水に映る満月を見つめていた

突然 しめてあったたががはずれ 桶はばらばらになって落ちた
いっきに水が流れ 月の反映が消えた
千代能は光明を得た

光明はいつも突然だ。光明において、段階を踏むことはない。段階を踏むこと自体が、マインドだからだ。光明はマインドに属さない。程度というものはすべてマインドのものであり、光明はマインドを超えている。だから、光明へと成長することはできない。光明はただジャンプする。一歩一歩進むものではなく、段階はない。光明はちょうど、深い淵のようだーージャンプするか、しないかだ。

光明は部分的、断片的には体験できない。それは全体性だ。あなたがその中にあるか、その外にあるかだ。順を追って進むものではない。もっとも基本的なことのひとつとして、これを覚えておくように、光明は断片的にではなく、完全に全体的に起こる。光明は全体として起こる。だから、マインドはつねに理解できない。分割できるものであれば、マインドは理解できる。分割払いが利けば、理解できる。マインドは分析、分類、分裂だからだ。部分であればマインドはわかる。マインドはいつも、全体をとらえられない。だからマインドに耳を傾けるなら、絶対に到達しない。

それが起こったことだ。この尼僧、千代能は何年も学んでいたが、何も起こっていなかった。マインドは、神について勉強することができる。光明について、究極について勉強することができる。マインドは、”すべてがわかった”と、あなたに思わせることもできる。しかし、神は理解するものではない。神についてすべてを知ったとしても、あなたは彼を知らない。理解とは「〜について」というものではない。「〜について」と言うときはいつも、あなたはよそ者だ。あなたは、ぐるぐるまわっている。だが、円の中には入っていない。

”わたしは、神について知っている”と人が言うとき、その人はまったくわかっていないと言っている。どうやって、神について何か知ることができるだろう?神は中心(センター)にいる、周辺にはいない。物質についてなら、知ることができるーー物質に中心はないからだ。それはただの周辺だ。意識については、知ることは不可能だーーそこには自己がない。内側には誰もいない。物質は外側でしかない。物質であれば知ることは可能だ。科学は知識だ、科学という言葉の意味は、まさに知識だーー周辺の知識、中心のないものについての知識だ。周辺から中心(センター)に近づこうとすれば、あなたは取り逃がす。

あなたは、それにならなくてはならない。これが、神を知る唯一の方法だ。神について知れらることは、ひとつとしてしてない。あなたは、ならなくてはならない。なることだけが唯一の知識だ。・・

愛は、あなたが愛する者になったときだけに知られる。そればかりでなく、愛は、あなたが愛になったときにだけ知られる。愛する者さえいなくなる。それもまた外側のものだからだ。愛し合うふたりの人間は、不在になる。彼らはそこにいない。愛だけがある。・・

愛は、あなたが空っぽのときにある、知識は、あなたがいっぱいのときにある。
知識は自我(エゴ)だ。エゴが中心へ貫通することはない。エゴは周辺だ。周辺は周辺しか理解できない。エゴを通じて、中心の何かしらを知ることはできない。エゴは学習できる、エゴはあなたを偉大な学者にする、ことによると宗教学者、宗教的権威にもする。ヴェーダを、ウパニシャッドを、聖書を、コーランを全部覚えるかもしれない。それでもあなたは、まだ何も知らないーーそれは外側の知識ではないからだ。それは、あなたが入ってきたとき、ひとつになったときに起こる何かだ。・・

なりなさい、なるのだ!情報を集めてはいけない。愛を知りたければ、愛する者になりなさい。神を知りたければ、瞑想になりなさい。無限に入って行きたければ、祈りになりなさい。いずれにせよ、なるのだ!祈りについては知らずにおくことだ。それについて、他人が言ったことを収集してはいけない。学習が助けにならない。むしろ、学習しないほうが助けになる。自分が知ってることをすべて落としなさいーー知ることができるように。・・

光明とはなんだろう? 自分が何者であるか、知ることだ。外界はまったく関係がない。他人の言うことはまったく関係ない。他人の言うことは見当ちがいだ。あなたはそこにいる! なぜ、聖書やコーランやギータに頼るのか? 目を閉じなさい。あなたはそこに、自らの無限の栄光のなかにいる。目を閉じなさい。扉は開いている。・・

光明とは、源泉に行くことだ。源泉は内側にある。そこで生が湧き出ている。脈打っている。絶え間なく、あなたの内側で鼓動している。なぜ、他人に聞くのだろう?学習するとは、他人に聞くことだ。自分自身についての問いを、他人に聞くとは? 馬鹿げているのもいいところだ。これは実に愚かしいーー自分自身について問うのに、他人にたずねるのとは。それが学習の意味。答えを探すことだ。だが、あなたが答えだ!

『ある晩 千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた』

あなたもまた、水でいっぱいになったとても古い、大昔の桶を運んでいる。それは考えごとでいっぱいになったあなたのマインドだ。それは、自分の抱えるもっとも古いもの、ほとんど死んだものだ。

マインドはいつも古い、新しかったことがけっしてない。まさにその本来の性質から、新しくない。マインドは記憶だからだ。記憶がどうして新しくなるだろう?マインドは過去だ。どうして過去が新しくなるだろう? 自分のマインドを見なさい。それを抱えるのは古い。死んだものだけだ。知った瞬間から、すぐにそれは過去だ。既知のものを認識するとき、すでにそれは去っている。それは”今ここ”にはなく、死の世界へ移っている。・・

新しいものはすべて、マインドからではなく、意識から生まれる。意識とは、あなたのもっとも内なる源泉だ。マインドは、あなたがたくさん旅をして、たまってしまった垢だ。・・あなたのマインドは風呂に入ったことがまったくない。あなたはそれに執着している。それは徹底的に汚れている。そして瞑想の手法はすべて、このマインドを洗う手法にほかならない。内なる風呂に入ることだ。そうやって垢は洗い流され、隠れていた意識が表面にあらわれ、実在と出会うことができる。

実在はそこにあり、あなたもそこにいるが、出会いがない。あなたと実在の間にマインドがあるからだ。何を見ても、マインドを通して見る。何を聞いてもマンドを通して聞く。それでは、ほとんど耳が聞こえていない、ほとんど盲目だ。・・

イエスは知っていた。わたしが知ってるように、あなたたちは耳が聞こえず、目も見えないと。

マインドで聞いても、聞いたことにならない、マインドは解釈し、色づけし、変え、マインド自身を混ぜ合わせるからだ。だから、あなたに届く物はすでに古い、マインドはペテンにかけた。マインドはそれ自体の解釈、意味を持たせ、解説をつけた。

だから、正しい聞き手にならないかぎり・・正しく聞くとは、マインドなしで聞くことだ。正しく見る者は、マインドなしで見ることができる者だ。解釈、判断、非難なしで見ることだ、評価せず、イエス、ノーと言わずに見ることだ。・・

判断しないでただ聞けば、突然、このマインドこそあらゆるごたごたの原因だと気がつく。
マインドは古いーーどんなマインドもけっして新しくはならない、だから、自分は独創的なマインドを持っているとは、けっして思わないことだ。どんなマインドも独創的にはなれず、すべて繰り返しで古い。だからこそマインドは始終、繰り返しを好み、いつも新しいものは反対する。マインドが社会を作った。だから社会はつねに新しいものに反対する。マインドは国家を、文明を、道徳を作った、それらはすべて、新しいものに反対する。・・マインドより因襲的なものは、他に見つからないだろう。

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今起きてる「コロナ騒動」もある意味、マインドの「繰り返し」なのかもしれず、

目覚めた人にとっては、ぐるぐるまわっている「周縁化」から抜け出すチャンスです。

そういえば、このブログを始めて、一番最初にメールを頂いたのは「高野山で尼さんをしている」という60代の方で、

メールの内容は単に、「ホーキンズ博士のこと、キネシオロジーのことを教えていただき有難うございます・・」でしたが、相当の覚悟がないと出家って出来ないだろうし、ちょっとビックリしました。

で、この「尼僧 千代能」は、出家するために「顔を焼いた」とのことで、その理由はあまりに美しいので、どこの寺でも受け入れてもらえなかったからです。

そんな半端ナイ「覚悟」で臨んでも、ある種の「偶然」が起きないとソレは起こらず、

その「偶然」は、尽力した人だけに起きるけど、その尽力が「光明を得た」原因(方法)ではありません。

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光明は、いつも偶然のように起こる。だが、わたしの言うことを誤解してはいけない。光明は、いつも偶然のように起こるとわたしが言うとき、光明のために何もするなとは言っていない。そういう意味ではない。光明のために何もしなければ、その偶然さえ起こらない。その偶然は、そのためにとても尽くしてきた人たちにしか、起こらない。しかし光明は、彼らの尽力からはけっして起こらない。これが問題だ。光明は、尽力からは起こらない、だが光明は、尽力なしには絶対に起こらない。その尽力は光明を引き起こす原因にはならない。その尽力から、偶然に遭いやすくなる状況が生まれる、それだけだ。

瞑想をすると、偶然に遭いやすくなる、それだけだ。だから覚者(ブッダ)でさえ、いつあなたに光明が起こると告げることができない。人々がわたしのところへ来てたずねる。わたしは「まもなく」と、彼らに告げる。それは意味はない。まもなくーー次の瞬間かもしれない。まもなくーー何生もかかるかもしれない。・・

だが、尽くすのをやめてはいけない。起こるものなら起こるだろう、と想像してはならない。そんなことでは、まず起こらないだろう。それに備えなければならない。偶然に、未知に備えーー準備し、待機し、受容的でいなさい。さもないと偶然が訪れても通り過ぎていく。・・扉を叩いているのはただの風だと、と思うかもしれない。あなたが実にたくさん考えることができるーー誰もが大思索家だ。・・

偶然に備えなさい。そして、覚えておきなさい。あなたのすることはすべて、光明が起こる原因にはならない。あなたのすることはすべて、ただあなたの中に、ある状況を生みだす。できることはどれも原因にはならないが、招きになる。その違いは大きい。原因と思えば、要求し始めるからだ。それを原因と思うと、あなたは言う、「なぜ起こらないのだろう? なぜ、今だにそれは起きないのだろう?」と。それが内側で緊張を生む。緊張があると、光明が起こることはない。

最終的には客次第だ。あなた次第ではない。だが招かなくては、客はけっして来ない。それは確かだ。あなたの招きで彼が来るかどうか、さだかではない。だが、招待がなければ来ないのは確実だ。招待があれば来るかもしれない。可能性はある。だから、扉のところで待っているように。でも気にしてはいけない。そのつもりでいてはいけない。

”確実に”はマインドのものであり、”待つこと”は意識のものだ。マインドは浅はかだ。その確実性は、すべて浅はかだ。光明はいつでも起こる。あなたに知る用意、見る用意のあるときにはいつでも。それはいつも、すぐそばで起こっていたと知るだろう。光明を見ていなかったのはあなただ。あなたがそちらの方向を見ていなかった。

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「備えは」しても、「でも気にしてはいけない」って、地震への構えと似てますが、

起きて欲しくないことであっても、起きて欲しいことであっても、執着がNGなのは同じで、

いずれにせよ、『”確実に”はマインドのもの』であることを踏まえて、

ナイスな「偶然」が起きる状況=「場づくり」に尽力することが大切だと思いま〜す!

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