酵素カフェ

覚醒に至る「二つの道」に学ぶ自然療法と対症療法の違い

日本女性の肌がキレイなのは「梅雨」などで湿気が多いから・・と言われてますが、

コロナ渦で「マスク荒れ」現象が起きているとのことで、お若い方は化学繊維マスクが多いせいでしょうか?

<20~30代では、過半数の女性が「マスク荒れ」を実感中>

資生堂には、接客をつとめる店舗のビューティーコンサルタントから「コロナ禍を経て肌が敏感に傾いている」「肌荒れしている」というお客さまの声が急増しているという意見が寄せられたという。「そこで実際に20~40代の女性にウェブを通じてアンケート調査を実施し、コロナ禍後に美容で変化したことを尋ねました。『マスクをつけることで肌荒れするようになった』が38.4%、同じくマスク着用により『肌がかゆくなるようになった』が43.3%。『ニキビができやすくなった』が、34.3%という回答を得ています」(菊田研究員)。

https://www.wwdjapan.com/articles/1106390

今年になって、化学繊維(ヒートテック)の影響を実感した次第で、

顔や手、足先など、下着を着けてない部分は何でもナイのが幸いでした。

そして昨年5月、Cimicuriさんから「麻マスク」を頂いた時は、

Cimicuriさんの「麻マスク」に知るシンプルな「現実創造」のポイント

まさか、こんなにも長い期間、マスクが必要になるとは思いませんでしたが、

(で)と(て)をミスったと思われる、この「文章」通りになってしまい、
単純ミスは、無意識からのお知らだったりする場合があります。

同じ頃、医療従事者等からは「マスクは必要ない」といった声も上がってましたが、

医療従事者たちのコロナ告発と「現実化」している30年前のプレアデス情報

ホリエモンさんなどワクチン接種を勧める有名人もいますし、情報が混乱してる今の状況下で一番大切なことは、依存体質を脱することだという藤原直哉氏のこの話は、大いに同感です。

「依存の終わり」というのは、別に「雇われ」を辞めることではなく、自主独立した存在として「不服従」が出来るかどうかが決め手であり、

「服従から逃れたい」だけで辞めて、他の所に行っても同じことになる・・のは、自立とは外面ではなく、100%内面の問題だからです。

ですので年収何千万円のキャリアウーマンが自立してるとは限りませんが、向上心を持って続けられることがあると直感が働くようになり、自然に「プロ」になっていき、

その際に大事なことは「誰と繋がるか」の人間関係だというのは、家庭の主婦でも全く同じですが、

政治・経済アナリストのプロとして、政府関係や大企業など、いろいろな体験をしたからこそ響くお言葉で、

藤原氏は大本教の信者でもあり、しかし、その入り口は「科学」だったそうです。

Q:藤原さんと大本との関わりについてお教え下さい。

【藤原】 私のうちは両親とも無神論だったものですから、私も無神論者に育ちました。神も仏もあるものか、そんなものは人間の妄想だ、とずっと思っていました。

 20代の後半から30代前半にかけて、アメリカの金融機関に勤めていたんですが、そのころバブル経済の崩壊が起きました。あれは大変な一大事件でして、日本もアメリカもこれから非常に大きく変わるだろうと、仕事をしていて思いました。

 この行き着く先は、もっと静かな世の中になるだろうと、直感的に感じました。

 1991年頃、どこかで『大本神諭』を読んだんです。そこに「ビックリ箱が開くぞよ」と書いてありました。

注・明治26年(月日不明)の大本神諭に 「世界の人民よ、改心致されよ。元の昔に戻すぞよ。ビックリ箱が明(あ)くぞよ」 と書いてある。
 それを読んだときに「ああ、そうだ、これだ。ここに書いてあることがこれから起きるんだ」と直感的に感じました。

 その後、アメリカの金融機関を辞めて自分で独立した後、いろいろ御縁があり、人に連れられて大本の聖地に見学に行きました。93年か94年頃です。綾部と亀岡を参拝し、いろいろ説明を聞きました。

 気持ちのいい所だな・・・と感じましたが、このときはただそれだけです。その後も何度か誘われて参拝に行きましたが、信仰を持ったとか、そういうことはありません。

 2001年の9・11事件の少し前に、アメリカでITバブルが崩壊しました。アメリカがこけたら世界もこけてしまいます。このとき私は、アメリカはもう元に戻らない、世界は変わって行く・・・と感じました。

 ここから先は人間の思考で、論理を積み上げて未来を予測することはできないだろう。ここから先のシナリオは神にしか分からないだろう、と感じたのです。どういう順番でこの世が動いて行くか、理屈を超えたところにある・・・と、このとき強く感じました。そうしたら何故か急に神様を拝みたくなったのです。

 そこで神棚を買いに行ったんです。神棚とか神殿とかは、正しく神と向き合う、そういう場ですね。つまり神様と通信がしたくなり、神棚を買いに行ったんです。しかし、いい神棚がありません。

 そのとき、以前に大本に行ったときに親切に案内していただいた出口眞人さんを思い出し、連絡を取ってみました。──そういう経緯で大本に入信したのです。

Q:無神論者だった藤原さんが、なぜ神の存在を信じるようになったのでしょうか?

【藤原】 実はサイエンスを勉強していたら、神はいる、と確信するようになったのです。

 90年代に大学の教員をやっており、数学を教えていました。「無限」とか「次元」とかを文化系の学生にわかりやすく教えるために、あらためて数学を勉強しなおしました。

 数学というのは完結した体系ではなくて、実は「穴」が開いています。たとえば「無限に大きい」とか「無限に小さい」という場合には、現在の数学の枠からはみ出してしまうんです。今の体系からはみ出してしまう。そういう「穴」が開いているんです。

 「次元」というのはとても面白くて──たとえば影絵は、手は三次元ですが、それを映す障子は二次元です。次元の大きいものを小さいものに映しているわけです。

 われわれがいるこの三次元も、何かの影である、もっと大きい次元の影である、と言うことができると思います。

 当時「非線形研究会」に出ていました。世の中を見ていると、規則的に動いている部分と不規則的に動いている部分とがありますよね。良好だった人間関係が突然壊れて終わってしまうとか。突然事故に遭ってしまうとか。それを「偶然」と言って片付けてしまうんですが、しかしよく研究してみると、もとから大きく発散するような何らか構造がある。

 カオス(混沌)を研究していくと、法則とか秩序というのは、突然生まれて突然なくなることがあることが分かります。極端に言うと「リンゴは木から落ちる」と私たちは思っていますが、必ずしもそうではない、ということです。

 一瞬にして秩序が生まれ、一瞬にして秩序がなくなる、ということがあることが数学的に証明されてきました。

 いろいろな分野に応用されるようになりましたが、これを社会科学に応用するとスゴイことになり──経済や政治、国家というものも、突然生まれて突然なくなることがある、ということになります。

 量子物理学が今から100年くらい前から研究されてきましたが、すべてがエネルギーであり、形のあるものとないものとの本質的な差はないということが分かってきました。粒子を細かく調べてゆくと、波だかモノだか区別がつかなくなってしまう。

 これは今までの教育を受けてきた人にとっては、革命的なことです。科学は目に見えるものを扱い、宗教は心とか目に見えないものを扱う。宗教と科学は厳然と分けられていました。

 しかし目に見えるものと見えないものに本質的な差はない、ということが分かってきたのです。

 ですがもともとは宗教と科学は分かれておらず、一体でした。先日、専門家に伺ったのですが、「心」(という概念)が生まれたのも、せいぜい孔子の時代(紀元前5世紀頃)くらいなのだそうです。それまでは心は特に意識しておらず、人間の行動と心は一体のものだったのだそうです。

 中世の時代は、宗教と科学は一体で、宗教家が科学者を兼ねていました。

 宗教と科学が分かれてきたのは、近代に入ってからです。だからまだほんの数百年しか経っていないのです。

 それが、量子物理学などの発達で、目に見えるものと見えないものの間に本質的な差はないということになってきました。

 90年代にはカオスの理論も発達し、またフラクタル(相似形)のことも分かってきました。大きすぎて見えないものを小さいものを見て類推する、あるいは逆に小さすぎて見えないものを大きいものを見て類推することができます。大宇宙の姿を、小宇宙である人の体を見て類推する、というようなことです。

 たとえば人の生き死にも、法人(会社)の生き死にで類推することができます。会社をつくるときに定款をつくりますが、人間にも定款があるわけです。しかし会社は定款通りに営業するわけではありません。途中で変わることもあります。やることが終わって解散する場合もあります。会社に株主がいるように、人間にも株主がいるのでは?

 ──そういうことをいろいろ考えて行くうちに、神はいる、と確信するようになったのです。人は生まれたときに始まって死ぬときにすべて終わるというのは違う、と確信しました。

 ですから私の場合、病気とかの悩みがあって苦しんで、神を信じるようになったというのではなく、科学を勉強していくうちに、神の存在を確信するようになったのです。

http://www.onitama.net/modules/ot/index.php?content_id=29

9.11が起きた2001年、自分もその頃、バッチフラワーとペルーの先生に出会い「人生の転機」となりましたが、

新しい時代にシフトするためのバッチフラワーの勧めと使い方

経済のプロとして、藤原氏は今の状況を直感したのですネ!

「ここから先は人間の思考で、論理を積み上げて未来を予測することはできないだろう。ここから先のシナリオは神にしか分からないだろう、と感じたのです。どういう順番でこの世が動いて行くか、理屈を超えたところにある・・・と、このとき強く感じました。そうしたら何故か急に神様を拝みたくなったのです」

さて、自分は特定の宗教に帰依してませんが、

いろいろな宗教のチャンポンはNGであり、それは「医療」においても同じだと、

21歳で覚醒し、哲学の大学教授でもあったOSHOさんは言います。

*************

あらゆるシステムとは、それ自体がパーフェクトだ。
だから、あなたがそれを何か他のものと結びつけた瞬間、
その有機的統一を壊してしまう。

宗教の統合をずっと語り続けている大勢の者達がいる
ー無意味なことだ!

あらゆる宗教が一つの完成品であり、有機的統一体だ。
それは他のものと結び付ける必要などない。

もし結び付ければ、全てを破壊することになる。
聖書、コーラン、ヴェーダは類似しているかもしれない。
だが、それは表面的な類似だ。
深いところでは、それらはそれぞれ
独自の有機的統一を持っている。

だから、もしある人がキリスト教徒だったとしたら、
その人は100%キリスト教徒であるべきだ。
もしある人がヒンドゥー教徒だとしたら
その人は100%ヒンドゥー教徒であるべきだ。
50%はキリスト教徒で、50%はヒンドゥー教徒というのは、まったくの狂気だ。

それはちょうど、50%アユールヴェーダを使い、
50%対症療法の薬を使うようなものだ。
そんなことをすれば、その人は狂ってしまうだろう。
「療法」と言われるものの間に統合がないように
あらゆる宗教は「療法」のようなものだ。
それは一種の薬だ。それは一つの科学だー
その中にあらゆる技法が含まれている!
私が薬のことに触れたのは、話を終わらせ
結ぶのに都合がいいからだ。

意思の道はちょうど自然療法のようなものだー
あなたは自分自身を頼らなければならない。
手助けはない!
明け渡しの道は、それよりももっと対症療法に近いー
あなたは薬を使うことができる。
それは、こう考えればいい。

誰かが病気だったとする。
彼には二つの要素があるー
内側での前向きな健康の可能性と、
偶発的または予期せぬ疾患や病気だ。
自然療法は、直接病気に関わりはない。
自然療法は、積極的な健康の助長に関わる。
つまり、もっと健康になろうーということだ。

自然療法とは、積極的に健康を増進させるという意味だ。
健康が増進されれば、病気はおのずから消え去る。
だから、あなたは直接病気に関わる必要はない。

対症療法は病気に関わっている。
病気を破壊すれば、自動的にあなたは健康になる。

それと同じように、意志の道は
積極的な気づきを助長することに関わっている。
もしあなたが気づきを助長すれば、エゴは消え去るー

エゴは病気と同じだ。

明け渡しの道では、病気それ自体に関わっており、
積極的な健康の増進には関わっていない。
病気を打ち砕くことーエゴを明け渡すことー
そうすれば、あなたは健康になっていく。

明け渡しの道は対症療法的であり
意志の道は自然療法的だ。

だが、両方を一緒にしてはならない。
さもないと、あなたはもっと病気になってしまうだろう。
健康であるための努力が
あなたにもっと多くの問題を作り出すことになる。
みんなそれらを、まったく一緒にしている。
人はこう考え続ける、「無数の療法を使えば、自分的に、すぐに健康になって然るべきだ」と。
数学的に、論理的にはそうであるかのように思える。
だが実際はそうではない。
そんなことをすれば、どうにもならない状況に陥ってしまう。

*************

「悟り」への道は二通りあり、

コツコツ努力して「気づき」を深める「意志の道」は自然療法的で、

待って、待って・・ある時、突然ブレイクする「明け渡しの道」は対症療法的です。

で、一見「あるがままに」と簡単そうな「明け渡しの道」はヒジョーに難しく、ブッダは6年間「意志の道」を歩んだあげくどうにもならず、最終的に「明け渡しの道」で覚醒しました。

このように、途中での路線変更はアリだけども、同時にチャンポンしてると狂ってしまう点が「医療・療法」と同じで、ペルーの先生も「ジプシーになってる人はなかなか治らない」と言ってました。

ワクチンは「対症療法」ですので、「自然療法」派にとってはチャンポンになりますが、そうでない方々にとっては別の感覚があるのかもしれず、

「明け渡しの道」と「意志の道」は決して交わらない・・ということは、大いに参考になりました。

ちなみにバッチフラワーは「補完療法」に位置し、

その意味は、主軸が「対症療法」でも「自然療法」でも、補完的に使えるということです。

ホメオパシーなどの「自然療法」と西洋医療(対症療法)をごっちゃにすると、どちらも効果が半減するのは確かで、

そういう意味では、ラジウム石やブラックトルマリンなども「補完療法」的ですネ。

そういえば、追加購入したブレスレットは、チョーカーと同じAAA 6mmで、

旦那さんの分と同じく、

10mm玉で安いのがあったので、購入してみたら、

アララ・・自分で作るタイプでした〜〜が、

こちらもキレイな玉で「効果は同じ」でしたので、作る手間を惜しまない方にはお得です。

OSHOさん曰く、意志の道においては何をするか「選択」する道ですが、

************

意志の道においては、意志が存在することが前提だ。
明け渡しの道では、意志が存在しないことが前提となる。
そこで、もし一方の道にあなたが引き付けられるなら、
もう一方の道は、あなたには理解できないだろう。

その二つの道には、正反対の前提があるからだ。
もし無意志の道があなたを引き付けるのなら
あなたは、意志の道にはまったく引き付けられない。
明け渡すことには意味がない。
意志の道では、あなたは何ができるかということが
当然のことになる、
その状況で問題なのは、何をするかということだ。
あなたは自分を神から遠ざけることができる。
また、自分を彼に近づけさせることもできる。
それはあなた次第だ。

************

「明け渡しの道」は、理不尽なハプニングでも「受容する」道で、

ある意味、動物は「明け渡しの道」で生きてますが、
動物には「明け渡す」エゴがありません。

「意志の道」は、「気づき」=潜在意識・無意識を知ることを重視する自助努力の道で、手助けするガイドは必要だけども、全託する「師」は必要なく、

藤原氏の言う「依存と自立」は、どちらの道を歩む人にとっても重要なことだと思います。

ウパニシャッドの体系は「意志の道」であり、

「明け渡しの道」がヒジョーに困難なのは、全託する「師」がないと「狂ってしまう」危険性が大とのことで、

ペルーの先生を紹介してくれたヨガ先生の弟さんは芸大受験を失敗して引きこもりになり、統合失調症で入院生活をしてると言ってましたが、真の「先生」を見つけるのが稀な現代社会では、「明け渡しの道」はますますイバラの道です。

大本は同じなので「悟って」しまえば、どちらも「同じ地点」に合流するのですが、

中途半端にチャンポンしてるとフリーズしちゃうというのは、健康&ワクチン問題も同じかもしれませんね〜

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