トランサーフィン理論が、他の「思考が現実化する」本と違うのは、行動することを重視していて、具体的な策を提示しているところで、
例えば第1巻の、
「仕事などで自分の両手と頭は貸し出すことがあっても、問題解決のために心は常に解放しておくべきである」
とか・・
最新版の、
「自分の存在意義を高めようとするあらゆる試みを一切中止する」
「ゲームから下りるためには、注意を切り替える、すなわち注意を何か別のことに振り向ける必要がある」
とか・・
チョット意識的になってやってみるとイイこと盛りだくさんです。
結局のところ、思考だけでスグ現実化しないのがこの世の醍醐味で、行動することは大切なのです。
単細胞生物から始まり、人間にいたるまで、あらゆる生き物の意図は、次のような一般的常則によって特徴づけられる。それは、
私は効率歴にリアリティを操るべく、そのように行動し、そのように努力する、というものだ。まさしくこのような意図こそがバリアントの空間の然るべきセクターを物質化させ、その結果として、新しい兆候が出現するのだ。
「振り子の法則」って、理数系ドライな印象だったけど、最新版でのヴァジム・ゼランド氏の一文で好感持ちました。
振り子たちの文明によってまだ毒されていない人々が、動物を殺したり木を伐採したりする前に許しを乞うしきたりになっているのは、故あってのことなのである。
たとえば、仏教たちは、たとえ小道を通るときでも、うっかり昆虫などを潰さないよう、また、いたずらに草を踏まないよう、常に足元に気を配る。
すべての生き物に敬いの気持を十二分にいだくべきであり、この世界ではどの生き物も等しい権利を持っている。もし人間がこうした考えを持たないのであれば、人間そのものにどんな価値があるというのか。
日本では伝統的に働くことが日々の喜びになってて、
スギナを乾燥させてお茶にするとか、
自然に自然を大切にしてきた昔の日本人には、本来必要のない理論なのかもしれませんね〜
シュタイナーによれば、人間の思考は「過去の遺産」で、人間の手足は「未来」です。
おおまかにいえば、「私たちの前世の手足が、頭に変容したのだ」ということです。
私たちの手足は、来性では頭に変容します。生まれてから死ぬまでのあいだ、私たちの頭のなかでは思考が働いています。その思考は、前世において私たちの手足のなかで働いていた意志が変容したものです。
そして、意志としていま私たちの手足のなかで活動しているものは、来世で思考に変化します。
シュタイナー という人は「緑は生命の死んだ像」とか、時々、ドキッとすることを言いますが、
早とちりしないで、じっくりその理由をたどると納得なので、早とちりな自分には一種の訓練です。
シュタイナー的には、めったに本を読まない日曜大工な旦那さんとか、
お坊さん的治療士で農作業に励むペルーラム君とか、
実際に手足を動かすのは、未来にイイ投資をしてる事になるんでしょうかねぇ〜
まあ自分も最近になって、手づくり味噌を作ったり、
酵素を作ったりし始めたら、
妙にスッキリするのは確かです。
さて、そのシュタイナーによれば、今の人間の思考は「過去の遺産」を読む力がなく、文盲になってるそうです。
精神科学の課題
人間の意識的な生活がいかに無意識の経過と結びついてるか、いかに無意識の経過が意識の経過のなかに入っていくか、いかに無意識から発するものが意識のなかに入っていくか、私は示したかったのです。
その無意識の瞬間は、長いものである必要はありません。気を失った一瞬のような短時間であることもあります。それでも、そのような瞬間にきわめて多くのものが、人間の本性の精神的・生命的な力に向かって輝きます。善の能力のある人には善の力、悪の能力のある人には悪の力が輝きます。
私が示したいのは、人間が世界を考察するとき、唯物論的な世界理解にとっては無意味に思われる関連に注意するよう試みる必要がある、ということです。
人間は次第に人生の関連を認識し、霊的・精神的なものが人に接近する瞬間を認識・洞察するようになっていきます。
現在、人間は物質的な原因によって世界を説明していますが、将来は、そのような形で世界を説明することがなくなるでしょう。
将来、人間は物質を正しい位置に据え、同時に、単なる物質的現象以外のものが存在することを認識するでしょう。
物質的な現象をとおして、精神的なものを認識するようになるでしょう。
色彩と音響という窓を通って、私たちは精神界に上昇していきます。
そのような窓をとおして精神的なものが下ってくることに気づかなければ、文字を読めない人が本を開いているようなものです。
世界の現象を読むことができない人は、宇宙のアルファベットのまえに立ち尽くすだけです。読むことができる者は、そのなかに精神界の経過を読みます。
現代の特徴は、人々は唯物論によって、宇宙の文字に対してほとんど100%文盲になっていることです。
文盲率の低さが文明国の自慢でしたが、宇宙事象に関しては文盲率は高いのです。
古代の霊視があったころは、霊的な文盲率は低いものでした。霊的な文盲から抜け出て、宇宙を読める者になることが、精神科学の課題です。
「物質的な現象をとおして、精神的なものを認識する」のがこの世の定めであり、
トランサーフィン理論で「宇宙を読める者」になれるとイイですけどね〜
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