酵素カフェ

初夏の「萌木の村」とOSHOの「光と闇の本性について」①②

梅雨前線&台風のコラボで、3日にかけて大雨のおそれとのことで、

6月1日の清里高原はちょっと小寒い・・日中の外気温15度前後でしたが、

平日(木曜)なのに、萌木の村には観光客がそこそこ来ていて、

皆さん、初夏の花々をゆったりと楽しんでました。



先週の土曜日は日差しが降り注ぐ好天気で、夕方4時半頃に萌木の村に行ったら、何やらイベントをやっていたようで・・もうすっかり、コロナ解禁ですネ。

お洋服とかも見たかったな・・と思いつつ、目的は「花の様子」を見に来た次第で、

2018年に作られたビオトープガーデン、イイ感じの小川になり、

端っこに、クランベリー色の不思議な形の花が沢山咲いてました!

ウチと同じく、マーガレットは盛りでしたが、

全体に、これから咲きそうな花が多く、

どんな花なのか・・気になったこの青い花、

今日見たら、半開きでしたが、日照で開閉するのでしょうか?

もっとも、この日は夕方5時近くになっても明るく、

花々が夕陽に輝いてました・・


ここのガーデンは、秘露農園と同じく「無農薬」でして・・見た目のキレイさだけでなく、生命を尊重しています。

ナチュラルガーデンズMOEGIは、ランドスケープデザイナー、ポール・スミザー(Paul Smither)氏監修のもと、約32,000㎡の「萌木の村」敷地全体を、2012年より10年の歳月をかけて整備した庭園です。

完全無農薬、無肥料でつくられたガーデンとして、日本でも類を見ないほど広大な面積を誇るナチュラルガーデンズMOEGI。清里高原の森に隣接した高低差のある敷地には、小川が流れる「水辺のガーデン」、落葉樹に囲まれた「ウッドランドガーデン」、日当たりが良く乾燥した「グラベル&ローズガーデン」、八ヶ岳の野草が植栽された「メドウガーデン」など、さまざまな花壇がつくられています。

花壇には、宿根草を中心に、土地の風土や環境にあった多種多様な植物が植えられています。なかには個体数が激減している種や絶滅危惧種も多く、ナチュラルガーデンズMOEGIはそうした種子を保存・管理する「シードバンク」としての役割も担っています。2022年現在は700種類を超える植物が育ち、四季折々のランドスケープを堪能できるようになりました。

庭の植物は、毎年集められる落ち葉を堆肥に、土の中の微生物の力を借りながら自然の循環の仕組みによって維持されています。また、庭を住処とする無数の虫や野鳥たちにも配慮された環境のなか、すべての生き物が互いに上手くバランスを取りながら共生している点もナチュラルガーデンズMOEGIの大きな特徴。花壇としての鑑賞価値だけでなく、庭に存在する小さな生き物たちにも目を凝らすことで、その豊かな多様性が見えてきます。

どうぞ、自然の理にかなった美しいガーデンをご自身で巡りながら、命の息吹を感じとってください。耳を澄ませば、きっと、自然の韻が聞こえてくることでしょう。

https://naturalgardens-moegi.jp/about/#history

このまま、このコンセプトで行ってほしいな〜 ですが、ポール・スミザーさんのブース、印象的な青い家には、

地味だけど楚々とした・・花々が咲いていて、


最近、ウチの庭に移植(保護)した、スターオブベツレヘムもありました!

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スターオブベツレヘムは「トラウマ」に対応するレメディーで、「英国」はマナーの国なので、日本人と同じく感情の問題を抱える人が多く、だからこそバッチフラワーが生まれたのでしょうが、ポール・スミザーさんは植物と対話することで、親との確執を乗り越えたようです。

自然治癒力を発動させるレッドチェストナットとポール・スミザーさんの「子離れと親離れが、人を強くする」

レッドチェストナットは、親との共依存的なつながりを断ち切るレメディーで、

儒教の影響が強い日本のマナー=道徳では「親を敬う」が当たり前ですが、

若干21歳で「悟りに至った」というOSHOさん曰く、「道徳なんていうものはまるで闇との戦いだ」と辛辣です。

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人は闇の本性と和解しなくてはならない。なぜなら、その同じものが眠りの本性であり、その同じものが死の本性であり、その同じものが一切の無知の本性でもあるからだ。

あなたが闇について瞑想すると明らかになる第一のことは、闇というものは存在しないということだ。闇はどんな存在も持たずにそこにある。それは光よりもっと神秘的だ。・・

それは全く実在を持たない。むしろ反対にそれはただ光の不在であるにすぎない。闇などというものはどこにもない。それを見つけ出してくることはできない。それはただの不在なのだ。それはそれ自体、実在を持っていないのだ。それはただ光が臨在していないということにすぎない。もしそこに光があれば、そこに闇はない。もしそこに光がなければ、そこには闇がある。・・

第二のことは、それが非存在的なものであるために、あなたはそれに何をすることもできないと言うことだ。そればかりかそれに対して何かをしようとしたら、あなたの負けだ。闇は打ち負かされるはずがない。どうして、何かそこにありもしないものを打ち負かすことができる? そしてそれに打ちのめされたが最後、あなたはそれをとても力強いものだと考える。「なにしろ、そいつは俺を負かしたんだから」というわけだ。・・

知っておいたほうがいい。あなたはいままでに、たくさんのありもしないものと戦い続けてきているのだ。それらはみなちょうど闇みたいなものだ。道徳なんていうものはまるで闇との戦いだ。それが馬鹿らしいのはそのせいだ。道徳なるものは丸ごとそっくり、無条件に闇との戦い、それ自体そこにありもしないものとの戦いなのだ。

憎しみと言うものは実体のあるものじゃない。それはただ愛の不在であるにすぎない。怒りというのは実体のあるものじゃない。それはただ慈悲の不在であるにすぎない。無知というのは実体のあるものじゃない。それはただブッダフット、つまり悟りの不在であるにすぎない。・・

これが二つ目、闇に対しては直接何をすることもできないという事ーーもし闇をどうにかしたければ、あなたは光について何かしなければ駄目だ。闇についてじゃない。光を消せば闇がそこにある。光をつければ、そこに闇はない。しかし闇をつけたり消したりすることはできない。それをどこからか持ち込むことはできない。それを押しやることもできはしない。もし闇をどうにかしたければ、あなたは光経由で行かなくてはならないし、非直接的な道を取らなくてはならないのだ。

決してありもしないものと戦わないこと。心(マインド)というものは戦いに誘われやすい。しかもその誘いは危ない。あなたのエネルギーと人生を浪費して、自分自身を無駄にしなければならなくなる。心に誘惑されないこと。ただ、そのものが本当の実在を持っているか。それともただの不在にすぎないのかを見抜くのだ。もしそれが不在なら、そのときは、それと戦ったりしないこと。そのときは、そこに不在であるその当のものを求めるのだ。そうすれば、あなたは正しい路線に乗っている。

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うん確かに・・スピ系で「闇と光の戦い」というコンセプトが出てくると、いっきに⤵︎しちゃうのは、存在しないものに力を与えちゃうからなんですね〜

バッチフラワーを飲むと、なんだか気にならなくなるのは、「光経由」でマイナス感情という幻想を消し去るからで、レメディーを選ぶ過程で「不在であるその当のもの」=光がクリアになり、光一元の世界を感じるようになります。

その上で、「本当の実在を持っている」懸案を解決するのはナイスですが、

聖人=イイ人でありたい・・と感情を過度に抑制すると、自分には何かドス黒いものがあるのでは? と不安になり、闇を除去しなくては・・という気分になりますが、これも一種の「戦い」であり、

「心(マインド)というものは戦いに誘われやすい」

は、大事なお言葉だと思いました。

実体のナイ「闇」と戦うより、花でも愛でていた方がナイスなのは明らかで、

土曜日の夕方、久しぶりに萌木の村を一周してオルゴール館側に戻ったら、

5時半だけどまだ明るく・・もうすく夏至ですネ。

萌木の村まで徒歩10分弱、(無料で)こんな素敵なガーデンを散歩出来るなんてサイコーだな〜 と帰り道、いつもの草花が輝いて見え、

すっかり緑に覆われた、セルフビルドの我が家に着いたら、

ちょうど夕陽が落ちる頃で、朝日もイイけど、暗闇前の夕陽の美しさも格別です。

というわけで、「コロナ(ウィルス)との戦い」キャンペーンも終わったようですし、

OSHOさんの「光の闇の本性について」の4つのうち、

①闇というものは存在しない
②非存在である闇には何をすることもできない(光経由で解決)

を、常に心がけておきましょう!

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