ついに「大手」メディアでも言わざるをえない状況が起きているようで、
2022年6月1日付けの日経ビジネスにこんな記事が掲載されてました。
2022.6.1
新型コロナウイルスに関する厚生労働省の新集計で、ワクチンを未接種の人より2回接種済みの人の方が陽性者になる確率が高くなったとのデータが示された。同省が外部からの指摘を受けて「未接種者」の集計方法を見直したのをきっかけに、40~49歳など約半分の世代で逆転現象が明らかになった。政策決定に関わる基礎データの一つだけに、専門家からは「なぜ接種者の方が感染しやすいのか国は詳細を調べて公表すべきだ」との声が出ている。
しかしながら5月半ばに、西八王子美容院に行った際、
(未接種の)美容師さんから、「テレビで(ワクチン接種を)CMしてますよ・・」と聞きましたので、矛盾だらけの「政府方針」ですネ。
さて、6月3日の清里は、前日と同じく朝から快晴で、
すっかり「朝散歩」が習慣になったピノちゃん、
今日は(家の)北側道路をスタスタ歩き出し、
まるでワンコのように、結構な距離を進みましたが、
急に立ち止まり、後ろを振り返り、
ちょっと行き過ぎちゃったかな〜 と家に戻り、
玄関前の薪棚の上で一休み、
しつこく顔を洗っているのは、
朝露に濡れてしまったから?
それとも雨?
午後はバーベキューするつもりですが、天気予報だと今日の清里は不安定とのことです。
山の天気のみならず、「急変する」世の中に慣らされてしまった今日この頃ですが、
人間には制御できず、「急変する」自然への畏怖から始まったと思われる宗教(アニミズム)が、いつのまにかおかしくなっちゃったのは、ユダヤ・キリスト教で罪悪感を植え付けられちゃったから・・というのが定番で、
「引き寄せの法則」が悪魔教的だと言われちゃうのは、「罪悪感がなければ、何をしてもOKです」みたいな捉え方があるからなんでしょうが、
1963年〜のセス情報は、「自然の罪悪感」と「不自然な罪悪感」をちゃんと区別して伝えています。
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さて、人は神を信じたために悪魔を信じるようになったとよく言われます。実のところ人間は罪の意識を持ったとき、悪魔を信じはじめたのです。罪の意識そのものは、思いやりが発生したときに同時に起こりました。
動物たちには、人間にはわからない公正さの感覚と、生物的な思いやりが備わった純粋で誠実な感覚が組み込まれ、それをもっとも深い細胞レベルで理解しています。
あなた方の観点では人も動物です。人間は自ら人間になり、一定の動物的能力を最大限に進化させてきました。つまりもはやこれ以上(これもあなた方の言葉ですが)新たに身体を物理的に変化させることなく、自己の必要や要求と、そして天賦の自然な攻撃性を持って、さまざまな価値や時空間に支えられた内なる構造をつくり出すようになったのです。程度の差こそあれ、このような衝動はすべての生物に備わっています。
そのような活動は、自動制御で正確で安全だけども制限されている本能という側面から人類が脱却しなければならないという思いを表していました。あなた方の知るような「意識的な心」の誕生により、人類は自らに自由意志を引き受けたのです。・・天性のマニュアルはいまや取って代わられました。・・
生物学的構造から「発生」した思いやりは感情的現象にまで育ちました。新たな意識はその成果つまり自由を手に入れ、それによって意識レベルでの行為の責任と、新たに生じた罪悪感に直面しました。
猫がネズミをいたぶって殺し、食べるのは悪ではありません。猫は罪悪感に苦しんだりはしません。どちらの動物も生物的レベルでわかっています。ネズミの意識は迫りくる痛みを本能的に悟った瞬間、身体から出ます。猫は温かな肉を役立てます。ネズミ自身、餌食でありながらハンターでもありました。両者は極めて説明困難なやり方でその間柄を理解しているのです。・・
あるレベルで、猫とネズミは互いに共有し合う生命エネルギーの本質を理解しています。そこでは個としての自分を失いまいと躍起になったりはしません。といっても生きるための懸命の努力をしないという意味ではありません。彼らには生まれつきの自然との一体感が無意識に備わり、自分が失われることも埋もれてしまうこともないのを知っているのです。
人類は独自の進化を追求し、その枠組みの外側へと踏み出すことを選びましたーー意識的に。動物の天性の知性に代わって思いやりが発生しました。つまり生物的な思いやりだったものが、感情的な実感に変わったのです。
多少なりとも生物的な思いやりから自由になったハンターにとって、自らの餌食に対する感情的同一視は避けれらないものとなりました。殺すことは殺されることです。生命のバランスが万物を支えています。ハンターはずっと知っていたことを、新たに意識レベルで学ばなければならなくなりました。これが罪悪感とその自然な枠組みの、本源的かつ唯一の本当の意味なのです。
動物たちは生命を無意識に維持しています。しかし、あなた方は生命を意識的に維持しなければなりません。・・
さて、このようなまったく自然の罪悪感が、とんでもない解釈で使われるようになりました。
罪悪感は思いやりの別の側面です。もともと、それによって自分自身やほかの生き物たちに意識レベルで共感できるようにしたのです。そうすればそれまで生物的レベルでのみ動かされてきたことを、意識的に統御できるようになるからです。そのため罪悪感には強い自然の素地があり、もしそれが悪用されたり誤用されたり、あるいは間違って理解されたりすると、すべての自然現象と同じように強大で恐ろしいエネルギーを帯びることになります。
もしあなたが何らかの本や思想にふれたことで罪悪感を抱いたら、そのことによって危険な目にあう恐れがあります。自分のどこかが悪いと信じれば実際にその通りのことを経験し、そしてあなたはその経験をネガティヴなものと見なすでしょう。そうして「不自然な」罪悪感が生じます。受け入れるに値しないものを受け入れてしまったために、それがつくり出されるのです。
満足しているものから罪悪感をつくり出すことは、普通はありません。もし身体が弱いと固く信じていたら、抑圧された罪悪感のエネルギーは身体組織を攻撃し、たとえば胆のうが、「悪く」なるかもしれません。けれども自分の観念体系によって統合性を信頼している場合には、身体の代わりにほかの人々にーーつまり個人的な敵あるいは特定の人種や宗教や皮膚の人々にーー自分の罪悪感を投影しているかもしれません。・・
それは身体が抗体を産出して防衛するのと同じで、悪いとみなす幻想や思想から自分を守るために「良い」考えや思いを打ち立て、知的・感情的な「抗体」をつくり出すのです。・・・
経験を否認しているとエネルギーを詰まらせ、必要のない「不自然な」罪悪感をためこむことになります。身体の方ではそういった滞ったメッセージを理解できず、いま経験している瞬間の物理的データを伝えるために悲鳴をあげます。そんな状況ではあなたは自分が感じていることを、頭の中・・
あなた方が不自然な罪悪感という歪んだ概念をかなぐり捨て、代わりに、自然な罪悪感についての古来の叡智を受け入れれば、戦争はなくなり、愚かな殺し合いもなくなるでしょう。加えて、身体の器官のそれぞれの生きた統合性を理解することによって、どこも痛める必要はなくなります。
もちろん肉体に死が訪れないという意味ではありません。身体の四季は心の四季とともに理解されるべきでしょう。それは来ては去りしながら、常に身体という形態の中に見事な一体性を保ったまま、絶えず変化し流れていくのです。いつもずっと疾患を持っていることはありませんし、一般的にそして理想的に言うと、身体は徐々にすり減っていくようでいて、耐久力はさらに増していくのです。
ほかにもたくさんの状況がありますが、すべてはあなたの意識的な観念に関係しています。たとえば最期は心臓発作であっさり逝きたいと思う人もいるでしょう。個人の目的はみな異なるので、どんなふうに身体経験を統御するかも人によってさまざまです。
概して、あなた方がここにいるのは自分の意識を広げ、意識的な考えを通して創造性の使い方を学ぶためです。意識は自らの観念を変えることができるので、身体経験も大いに変えることができます・・・。
自然な罪悪感は、動物に無意識に備わる公正さと全体性という身体感覚が人類に具現されたものです。つまり「汝、肉体の生命維持に不可欠である以上に殺すなかれ」という意味です。
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本能が壊れた「動物」である人間にとって、殺生に伴う「罪悪感は思いやりの別の側面」であり、
もともとは、自然な「罪悪感」や自然への畏怖から、原始宗教(アニミズム)が発生したのだと思われます。
「ハンターはずっと知っていたことを、新たに意識レベルで学ばなければならなくなりました。これが罪悪感とその自然な枠組みの、本源的かつ唯一の本当の意味なのです」
2021年初頭、ピノちゃんがウチに来たキッカケは、八王子宅にDSネズミが出没したからですが、
6歳までゲージ育ちだったピノちゃん、ネズミ捕りどころか、
尻尾振り振り興味津々で、
蝶々や虫を追いかけても、
まだ、一匹も捕っていません!(笑)
しかしながら昨日、庭先でブラブラしていたら、
ピノちゃんの尻尾が急に太くなりまして・・
何か見つけたのでしょうか?
ホント、動物さんたちは特殊な能力があるので、神社で「番」しているのでしょうネ。
「動物たちには、人間にはわからない公正さの感覚と、生物的な思いやりが備わった純粋で誠実な感覚が組み込まれ、それをもっとも深い細胞レベルで理解しています」
ピノちゃんは5匹目のワンニャンで、11月22日というゾロ目に引かれて、引き取っちゃったのですが、
1963年、ニューヨーク郊外のエルマイラの自宅で、セスをチャネリングするようになった女性作家のジェーン・ロバーツさんは、
1984年、55歳でこの世を去り、セスの口述を正確に筆記してくれた夫の画家ロブさんは、2008年88歳で逝去してまして・・ご夫婦ともどもゾロ目ですネ。
それはともかく、「セス・マテリアル」のまえがきには、日本人的にはごく「あたりまえ」な、宗教的バックバーンが書かれてます。
選択肢のもう一方、「地獄の業火(ごうか)」というものも、それと同じくらい信じられないものでした。わたしたちの父や祖父たちの伝統的な神は、悪魔が他の不幸な死者たちを拷問にかけているというのに、明らかに良心の呵責(かしゃく)もなく、諸聖徒たちと共にのんびりとすわっているだけなのです。「そんな神なんて、いらない!」とわたしは心に決めました。そして、もう「彼」のことを自分の友達だなんて思いませんでした。この点についていえば、話によると「彼」も自分の息子キリストのことを大切にしすぎることはなかったようです。でも、キリストのことは尊敬できるとわたしは思いました。彼はこの地上にいて、実際の様子がどうだったのか知っていたわけですから。
その後、20 才にもならないうちに、こんな古めかしい神や聖母マリアや聖者たちの聖餐式(せいさんしき)は卒業していました。天国と地獄、天使と悪魔は処分されていました。わたしが「自分」と呼んでいる、この特定の化学物質と原子の集まりは、もう決してこんな「わな」── 少なくとも「わな」だと見分けることのできるもの ── にひっかかることはあるまいと思ったものです。
ちなみにジェーンさんは、親の強制ではなく、自ら進んでカトリックの学校に通ったそうで、
そういえば自分も小4の頃、自発的にプロテスタントの日曜学校に通い始めたのですが、「こりゃダメだ・・」でヤメちゃった経験があります。
宗教的にはフリーがフツーな日本人ですが、その分「お上(国)を信じている」方々が多いようで、
だいぶ前の話ですが、今年90歳の父親に「フッ素入りの歯磨き粉は使わない方がいいよ」と言ったら、
「なんで悪いものをテレビで宣伝してるんだ?」と返されちゃいましたが、
先の「日経」記事からすると、日本的そんな常識が「急変する」流れが、そろそろ出ているのかもしれませんね〜
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