酵素カフェ

コロナだけでない「インフルエンザの季節」に学ぶ「個人、そして群衆現象の本質」

猫の好物は「日向ぼっこ」のようで、

昨日、朝日の当たる草むらにペタンと腹ばいになったピノちゃん、なかなか動こうとしないので、隣に座ったら、
腕を軽くガブされたのは、お日様を遮る位置に座ったからで、「日向ぼっこ」の邪魔してスミマセン!

そして夕方の散歩は日差しがなかったせいか、さっさと引き揚げ、

ぐっすり、お夕寝してました〜

昨夜から本格的な雨となり、今日6月6日の清里高原は1日中雨模様で、

雨の日はピノちゃん、全然外に出たがらず、

朝から、薪ストーブの前に陣取ってました。

お日様や暖かい場所が好きなのは哺乳類に共通する自然なこと・・だと思われますが、

現代社会は徹底して人工的なんだな〜 としみじみ思い知った「コロナ騒ぎ」で、

心ある方々が散々「危ない!」と警告していた例のワクチンですが、アララ・・ホントに危ないのは0.5%とのことで、

「(米国CDCワクチン有害事象報告)では、200回に1回のワクチンロット(約0.5%)が「毒性が高く」、短期的には入院、障害、死亡などの重篤な副作用が多数(ベースライン率の1000〜5000倍)あることを示している。」

そういったやり方は、ナント「子宮頸がんワクチン」も同じだったそうです!

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コロナワクチンのさまざまなことを知った中で、最もショックだったのは、「毒性 0.5%問題」を知った時でした。以下の記事にあります。・・

このデータを自分でも確認した時に、「ああ、ここまで工夫されていたんだ」と思うと同時に、「社会は終わった」と思った次第です。

世界的に展開されているこのワクチン政策に害があるということを「供給者側によって否定する作成工程を使っている」わけです。

もはや全世界の多くが疑うことはありません(重篤な障害を受けた 200人に1人を別にして)。

思えば、子宮頸がんワクチンというのも、それと似た感じではありました。

以下の1年以上前の記事に、製薬企業メルクの「ガーダシル」という子宮頸がんワクチンの FDA (アメリカ食品医薬局)による臨床試験データの一部を載せていますが、この試験データ通りのものが「実際に使われていた」とすれば、信じられない規模の厄災となっていたはずです。

しかし、実際の接種で壊滅的な有害事象を受けた女性の数は、まったくほんの一部だったことがわかっています。

同じ手だったんですよ。・・

毒性 0.5%問題の観点からですと、これからも死亡事例、免疫不全、ヒトヘルペスウイルスの再活性化などは、「たまーにしか起きない」とも思います。

ファイザー社の内部書類通りのコロナワクチンが実際に使われていたとするなら、あと 3年くらい、たとえば、2025年くらいには、日本だけで数千万人が亡くなっていたと思いますが、そうはならないはずです。

どうなるか。

人々は延々と打ち続ける。

そして、また次の病気が蔓延して、次のワクチンが登場する。

人々はまた延々と打ち続ける。

https://indeep.jp/reality-vs-illusion/

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皆がダウンすればすぐにバレますし、誰もいなくなってしまえば「売る」相手がいなくなるわけで、

こういったやり方をされると、「危ない」と言っていた方々が無力感にかられるカモで、実に巧妙な策略ですネ。

無力感に該当するバッチフラワーはワイルドローズですが、

清里「フェアリーテイルズ」のワイルドローズと英国で起きているシフトの兆し

「人間の意識にかつてないほど大きなシフトが起こりつつある」時期からこその「コロナ騒ぎ」だったのカモで、手の内を知った上でスルーするのが得策です。

さて、スピ系では有名らしい「セスは語る」は、ノストラダムス大予言の1999年に日本語版が出ていて、

ホピ予言の2012年に「個人的現実の本質」が出てますが、ナチュラルスピリット編集部グループで翻訳しています。

そしてコロナ渦の2020年に「セス・マテリアル」が出版されましたが、「セス・マテリアル」はセスシリーズの処女作です。

そして、つい先日、2022年5月に「セス・ネットワーク・ジャパン」が復活しましたが、

<セス語録>

君達は自らの想念を通じて身体の組成に影響を与えている。遺伝を信じれば、遺伝自体が君達の生活の中で強い暗示力を持った要因となるのだ。それは、自分が(頭のどこかで)ずっと抱えていると信じていた、まさに、その疾患を引き起こす手助けをすることにもなり得る。そして、揚げ句の果ては、君達の科学的な計測器によって「機能不全」やら何やらが露呈し、それが誰の目にも「動かぬ証拠」となってしまうわけだ。

夢、「進化」、価値の達成 第1巻 セッション 895 1980/01/14

https://www.sethnetworkjapan.org/index.php

「個人的現実の本質」のあとがきは、セス・ネットワーク・ジャパンのマサさんが書いてまして、

マサさんは理工系の方のようですが、ドイツでセスを知ったそうです。

わたしは還暦を迎えた、いわゆる「オヤジ」です。2000 年代初めまで十数年ドイツに住んでいました(現在は日本)。セスを知ったのは 80 年代の終わりごろ、友人が貸してくれたシャーリー・マクレーンの「アウト・オン・ア・リム」(ドイツ語タイトルは “Zwischenleben” )がきっかけです。マクレーンがどんな本を読んだのか興味があって書店に行き、「セスは語る」を買い、その日からハマりました。

ドイツ北部、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州にある小さな村“Seth”ドイツ北部、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州にある村“Seth”
90 年代の中ごろ、あるソフトウェア会社に勤め始めたのですが、わたしがたまたま持っていたセスのペーパーバック本を見つけて「あら、セスの本読んでるの?」という調子でセスの本を読んだ同僚が次々と見つかった時には正直、驚きました。それも年齢層は 20 代から 40 代で、ドイツ人だけではなく、イングランドやアイルランドの出身者もいたのです。「ヒット」となった時代からはもう随分歳月が経っているのに、みんな、ごく普通の作家の話をしているような口調でした。

また、ドイツでは、ちょっとした本屋なら、ニューエイジのコーナーに必ずセスの本が置いてあります。そんな事情があったため、90 年代後半に入っても日本ではセスの本が出ていないと聞いた時には耳を疑ったものです。平成 11 年(1999 年)7 月、出張で日本に来た折にふらっと入った書店で、発売されて間もない日本語版「セスは語る」が山積みされているのを見た時には「やっと出たか」という感じでした。

ちょうど、その一月(ひとつき)ほど前、わたしはエルマイラで行われた SNI(セス・ネットワーク・インターナショナル)の集いに非会員として参加し、バッツ氏や ESP クラスの(元)生徒たちなど、セスに直接触れた人々に初めて会ったところでした。これは本当に面白い経験でしたが、あろうことか、この集まりで SNI が解散すると発表されたのです(いや、わたしが参加したせいではないと思います…)。そんなわけで、この年の6月は SNI の解散と入れ違いのタイミングで日本語版「セスは語る」が出来上がり、わたしから見ると、一つの節目となる月でした。

このオンライン・ブックと Web サイトは、そういった諸々のことと関連して、わたしが 90 年代からずっと実現したかったことを、さまざまな国にいる数多くのセスファンの協力を得て「物質的につくり出した」ものです。込み入った説明を増やさないよう、セス独特の概念に関する話は抑えてあります。本書が何らかのお役に立てば幸いです。

マサ

https://www.sethnetworkjapan.org/seth-guide/7

3.11以降、日本だけでなく、世界中で「目覚め」が加速した感がありますが、

「今」の意識でセス情報を知ることは、個人的にも集合的にも、ナイスな未来の蓋然性がを高めそうだと、

この、「インフルエンザの季節」を読んで思いました。

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<インフルエンザの季節>

個人、そして群衆現象の本質
セッション 814 1977/10/08

マサ 訳

…ルバートは何冊か(並行して)本を書いているが、2、3日前、そのうちの一つに取り組んでいた時、(ラジオで)公共機関からの広報(お知らせ)を聞いた。ラジオの聴取者全てに向けて当局担当者が発表したところによると、公にインフルエンザのシーズンが始まったという。高齢者、そして特定の疾患に罹(かか)っている人々は今すぐインフルエンザの予防接種の予約をするように、と彼(担当者)は厳しい口調で勧めた。

ところで、その担当者によれば、過去においてインフルエンザ・ワクチンの接種を受けた人々の中にはかなり奇妙な疾患に罹る人々がいたが、その接種と疾患の繋(つな)がりを示す直接の証拠はないとのことだった。全体としてとても興味深い広報で、生物学、宗教、経済にまで跨(またが)った意味合いが含まれていた。「インフルエンザのシーズン」はある意味、心理的に仕立て上げられたパターンの一例であり、それが時折、(人工的に)作られた(病気などの)蔓延(まんえん)を引き起こす。

こうした告知の背後には医療従事者の権威があり、君達のコミュニケーション・システム自体の権威がある。(だから)君達はラジオから聞こえてくるその声を疑うことができない。話し手の姿は見えず、その話し手は何でも知っていることになってしまうのだ。

繰り返しになるが、高齢者が(インフルエンザにかかりやすい者の例として)選び出されていた。彼らが病気に罹りやすいのは明らかだということらしい。その罹りやすさは人生における医学的な事実だというわけだ。しかし、その「事実」には人間の生物的な実体の真実に関する基本的な土台がない。それは示唆によって生じた事実なのだ。医師達は身体的な結果を見る。結果は極めて明確だ。そうなると、その結果が「証拠」とみなされてしまうのだ。

世界でも、少数の孤立した地域では、今日でさえ、老人だからといって病気に悩まされるわけでもなく、生命の徴候が弱まるわけでもない。彼等は死ぬ時まですこぶる健康であり続けるのだ。

という訳で、君達も認めざるを得ないことだが、彼等の観念体系は至って実用的だ。また、彼等は医療に携わる人々に囲まれて暮らしているわけでもない。本書では後に、再び、このテーマに戻ってくるつもりだ。ただ、ここで話していることは殆ど「病気になるための社会的なプログラム」とでも言えるだろう。「インフルエンザのシーズン」というプログラムだ。それは群衆的な瞑想(自己暗示)であり、その背後には経済的な構造がある。また、科学的および医学的な土台が関与している。しかし、それだけではない。経済的な利害関係、それは最大クラスの薬局(チェーン)から、吹けば飛ぶようなドラッグストアまで、スーパーも近所の食料雑貨店も、そうした全ての要素が拘(かかわ)っているのだ。

(風邪や)インフルエンザに立ち向かうための錠剤、飲み薬、注射薬は目立つ場所に陳列される(注射薬も?)。それは、苦難の時期がやってくるのだと、(前述の)広報を聞き逃した人々にも気づかせる役目を果たす。(そこへ)テレビのコマーシャルが新たな集中砲火を浴びせる。だから(愉快そうに)花粉症の季節からインフルエンザの季節まで途切れることなく自分の薬を摂り続けていけるわけだ(痛烈な皮肉)。

6 月なら咳(せき)をしても笑ってすぐに忘れてしまうかもしれない。しかし、それがインフルエンザの季節になると咳一つでも遙(はる)かに疑わしくなる。そして、そういった状況の下で、今週はどうも調子がさえないなどという場合などはとりわけ、こんな風に考えることもあるだろう:「明日は外出しないでうちにいた方がいいんじゃないかな?」

こうなるともうすっかりインフルエンザにかかると決まっているようなものだ。これは何種類もの問題に向かい合わないための言い訳として重宝することになる。多くの人々は自分のしていること(自分からインフルエンザにかかろうとしていること)を殆ど意識的に自覚している。彼等はただ、社会からそれだけ湯水のごとく与えられている暗示群に目を向けさえすればいいのだ。すると、体温は実際に上がってくる。心配すると喉(のど)が乾いてくる。そして、潜伏している ―― たった今まで何の害もなかった ―― ウイルスが実際に活性化されるわけだ。

コート、手袋、ブーツのメーカーも自分達の製品を売り込もうとする。ただ、これらのカテゴリーはもっとまともだ。というのも、彼等の広告は、楽しくスキーをする人、冬の森を抜けてハイキングする人を描くなど、健全な活動を強調することがよくあるからだ。しかし、時には、彼等の製品なら君達をインフルエンザや風邪から守ってくれる、また、君達の本質的な傷つきやすさから保護してくれる、などと示唆することもある。

予防接種自体、全般的に言って、ためになることは殆どない。とりわけ、実際にはまだ生じていない伝染病を予防するために行われた場合、潜在的に危険をもたらす可能性がある。特定の価値がある場合もあるかもしれないが、全体として見れば予防接種は有害だ。身体のメカニズムは混乱するし、本来なら当分、現れることはなかったであろう他の生物学的な数々の反応が引き起こされることになるからだ。

インフルエンザの季節はもちろん、クリスマスシーズンと重なる。クリスチャン達は陽気であれと告げられ、仲間達には、少なくとも想いの中では、子供時代の自然な不思議(の世界)への幸せな里帰りを願う。神に敬意を払うように(とも彼らは告げられる)。しかし、キリスト教は密着性が大きく失われ、もつれたお粗末な物語に成り果ててしまった。こういった宗教は日常生活から隔絶したものになる。多くの人は自分の観念と気持ちの様々な分野を一つにまとめることができずにいる。彼等はクリスマスの時、自分の科学的な観念と宗教的な観念の間に途轍(とてつ)もなく大きな隔たりがあることを部分的に認識する。

こんな心的、精神的なジレンマをどうすることもできない自分に気がつくのだ。精神的な落ち込みはよく次のようなことになる。すなわち、クリスマスの音楽と商業的な陳列物(クリスマスのデコレーションやクリスマス向け商品など)によってその落ち込みがさらに強くなり、「神は自らの姿に似せて人間をつくりたもうた」という宗教的な連想によっても強まるということだ。また、そうやって(神から)与えられた身体にはどうやら自分で自分の面倒を見る能力がなく、最初から病気や災害の犠牲になるものと決まっているといった、また別の連想群によってもさらに憂鬱(ゆううつ)が深まる。

そんなわけで、クリスマスシーズンは君達の社会における人間の希望を抱き、インフルエンザのシーズンは人間の不安を反映し、(同時に)両者の隔たりを示すことになる。

医師というものはプライベートな人間でもあるわけだが、ここではその職業的な能力のみについて話そう。というのも、彼(医師)は普通、自分の仲間達と共有する観念体系の中で最善を尽くすものだからだ。こうした観念群は単独で存在するわけではなく、もちろん、宗教的、科学的な観念群と絡み合っている。たとえ、それらが別々であるように見えたとしてもだ。キリスト教は慣例的に病気を神の処罰、または神の遣(つか)わされた試練と見なし、慎んで受け入れるべきものとしてきた。また、人間は罪深い生き物であり、原罪という欠陥を抱えており、(だから)額に汗して働くことを強いられるのだと捉(とら)えてきた。

(これに対して)科学は人間を冷淡無情な宇宙から生じた偶然の産物だと見なしてきた。それは、その中心に意義などない(存在する意味はない)生き物であり、意識というものは単にたまたま生じた物理的なメカニズムの結果に過ぎない。また、その構造の外側に現実などというものはない、というわけだ。少なくともその点において言えば、科学には一貫性があった。ところが、キリスト教は、悲嘆に暮れる人間に向かって「喜びに満ちなさい」、罪深い人々には「子供のような純粋さを見出しなさい」と公に要求する。神を愛せと言うが、その神はいつか世界を破壊すると言い、自分を崇拝しなければ地獄行きを命じるぞと言うのだ。

多くの人々はこんな矛盾した観念の間に挟まり、とりわけクリスマスシーズン中、病気にかかる。教会や病院は大抵、どんな町でもそこで一番大きな建物だ。また、市の条例に頼らなくても(法的な手続きを踏まなくても)日曜日に開いている唯一の建物であることも多い(欧米では飲食店など一部を除いて日曜日の営業は禁止されていることが多かった)。(誰でも)自分の個人的な価値体系と健康とを切り離して考えることはできない。だから、病院は宗教が信者達にじわじわと染み込ませた罪(の観念)から利益を得ることになるわけだ。

私が今、話しているのは、宗教というものが社会的な生活や地域社会の事業とあまりにも深く絡み合っているため、宗教の基本的な統合性という感覚がすっかり失われてしまったということだ。人間は生まれながらにして宗教的な生物なのだ。

https://www.sethnetworkjapan.org/q-albums/flu-season1

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いやはや、インフルエンザも・・人工的な産物だったのですネ〜〜

そして重要なポイントは、矛盾した観念は葛藤を生み出し免疫力を下げるということです。

「彼等はクリスマスの時、自分の科学的な観念と宗教的な観念の間に途轍(とてつ)もなく大きな隔たりがあることを部分的に認識する」

「そうやって(神から)与えられた身体にはどうやら自分で自分の面倒を見る能力がなく、最初から病気や災害の犠牲になるものと決まっているといった、また別の連想群によってもさらに憂鬱(ゆううつ)が深まる」

う〜〜ん、ロスチャイルド当主が「あなた達は人間の心理を理解していないから、いくらインボーを暴いても無駄ですよ」と言ってたのは、こういう事なんですね。

このことはあなたにとって謎であり、それゆえにあなたは陰謀論に走るわけだ。「人間の群れを淘汰するためにワクチンを使っているのだ」などとね。ヘンリーよ、そういう声をあげることで、人々が怖がり目を覚ますとでも思っているのか?

あなたは小学生のように「なぜ?」と問い続ける。人々は政府が自分たちの世話をし、お金をくれ、安全を確保しようとしていると信じ切っている。そんな国民に、あなたの主張する事実や理性が通用すると、本気で思っているのか?

ヘンリーよ、すべては心理学とメディアなのだよ。私がここで何を言ったところで、結果に何一つ影響は出ない。

https://bach-iruka.com/わかりやすい心理学/105641/

コロナのおかげで、今まで(特に戦争や医療で)巧妙な策略がされて来たことを深〜く認識しましたが、

「0.5%問題」は、フツーに認知出来る方々に矛盾や葛藤を生じさせる常套手段であり、インフルエンザ・ワクチンで、すでに試されていたのかもしれません。

ますます、不自然なモノをカラダに入れない方がいいな〜と思う今日この頃で、

清里の庭先では、グングン草花が伸び始め、

様々な生命が、自然に成長していく姿には、いつも癒されます。


熱心に、蝶や蛾を追っかけるピノちゃん、毛虫は苦手なようで、

触ろうとして、あわてて、手を引っ込めてましたが、

毛虫さん達、いずれは蝶か蛾になるわけで、

ウクライナの件とか、かなり引いちゃう、ビックリニュースばかりの世の中ですが、今こそセスが伝える、

「自分の現実を創っているのは自分」を再確認しつつ、「日向ぼっこ」を楽しみましょう!

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