東京オリンピックの閉会式は「8月8日の20時より」とのことで、
8月8日、獅子座新月になるのは「22時50分」ですので、
「コロナで延期」など、いろいろ物議を醸した東京オリンピックでしたが、
「日本」仕切り直しのタイミングに合わせたかのようなスケジュールではあります。
さて、8月8日の清里は、朝方はやや雨が降り、
台風の影響で風も強めでしたが、
お昼前にはどんどん雲が晴れ、蝉がミンミン大合唱で、
小鳥の声も戻って来ました。
昨日の夕方、ピノちゃんをお外に出してみたら、
前回は怖がって、家の中にスグ戻っちゃっていたのに、
今回は、リードもつけないでスタスタ行ってしまい、
薪置き場の下に潜ったり、
全然へーき、冒険心満々で、
リードを付けて散歩させたら、どんどん歩いていくので驚きました!
1度目と2度目の大違いに「何事も慣れなんだな〜」と、ピノちゃんと歩いていたら「ひぐらし」の声が聞こえ、
旧盆時期と重なるのは、「台風」と「ひぐらし」なんですネ!
まだまだ、眩しい夏ではありますが、
もうトンボが飛んでますし、
マクロで捉えると、咲き終えた「花」もまた美しいです。
で、ピノちゃん、初めてのお散歩でクタクタになったのか・・
昨夜は早々に「ぐっすり」で、肉球をくすぐっても起きませんでした!
それにしても、「初めての事態」に過剰に警戒するのは、人間も同じだとしみじみで・・
昨年の夏は「緊急ナンチャラ」で、観光客少なめの清里高原でしたが、今年はスゴい人出で賑わっています。
日本人は台風慣れしてますが、台風と違って実態不明の「緊急ナンチャラ」トリックに気づいたのか・・それとも、ワクチン打って「安心した」のか・・
いずれにせよ、観光シーズンはピノちゃんと、
家で静かに過ごすのがナイスだと、
取り寄せたのが、この本です!
21歳で覚醒し、哲学の大学教授もしていたOSHOさんの「談話」は、世界中で三百五十巻以上の書物となって出版されていますが、それらのすべてには「音源」が残ってます。
つまり、弟子の「改ざん」はあり得ないわけで、録音テープという文明の利器のおかげで、真に光明を得た方の「生声」が知れるのは幸いです。
ペルーラムさんの話では、ペルーの先生は晩年「OSHOだけは読んでいた・・」とのことですが、
『食べるときには、ただ食べなさい。それとともに在りなさい。歩くときには、ただたんに歩き、そこに在りなさい。先に行ってはならない。あちこちと飛び回ってはいけないよ。マインドは、つねに先に進むか遅れるかのどちらか・・でも、それではいけない。いま、この瞬間にとどまりなさい』
というには、まさにペルーの先生が「リアル」に示してくれていたことで、
以下、かなり長い『まえがき』から、最後の方だけ抜粋です。
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瞑想すれば、マインドはたえまないお喋りで私たちを隷属化させることを止め、逆に有益な道具になってくれます。けれども、私たちはしばしば、概して今日の生き方からみれば理解しがたく、適切さを欠く、数限りない瞑想技法の洪水によって混乱させられています。和尚はこれらの技法から偽物と本物を選り分け、その核そのものへと貫通させ、想像を超えた宇宙への扉を開ける鍵を与えてくれています。そのマスターキーこと、<観照>すなわち目撃することなのです。それは自分自身をあるがままに見て、受け入れるという、単純だけども深遠な境地です。和尚は言います。
「観照とは、何ものにもとらわれない、超然とした、偏見のない観察という意味にほかならない。それが瞑想の秘密の核心だ」
それは、あまりに単純すぎて、かえって何年にもわたって見のがしつづけてきたのでしょう。私たちはみな、「見守る」とは何かを知っていると思い込んでいます。私たちは一日中自分のまわりを見ています。たとえば、私たちはテレビを見ています。あるいは、他人が通るのを見ながら、何を着ているか、外見はどうなのかなどは見守りますが、ふつう、自分自身を見守ることはありません。たまに自分を見るときがあっても、それはたいてい自意識の批判を通して行われます。自分の嫌いなところに気づき、他人がどう思うか気になりはじめるのです。通常、この内心のお喋りは自分をみじめにさせるだけです。これは観照ではありません。和尚は私たちにこう注意をうながします。
「何ひとつ為される必要はない。ただマインドの動きを見ている目撃者、観察者、観照者でありなさい。マインドのなかでは、思考、欲望、記憶、夢、空想などが通り過ぎてゆく、判断を下さず、非難せず、『これは良い』とか『これは悪い』とか言うこともなく、ただ眺め、見守り、超然と立ち、冷静でありなさい」
この本にある瞑想を通じて、あなたは観照とは何かを発見するでしょう。師の臨済のもとで坐っていると、観照はごく自然に起こりはじめます。ただ坐り、聴き、感じ、内なる静寂とともに、起こっているあらゆるものを見守る瞬間が生まれます。この静寂は、からっぽの広い青空のようでありながら、しかも生とともに脈動しています。
和尚の家は大空であり、まさに彼の存在そのものが静寂です。彼の言葉はハートの深みにやさしく触れます。彼の歌は一点のくもりもない大空の歌です。
あなたの内なる本性は
内なる大空にほかならない
雲は来ては去り
惑星は生まれては死に
星々は現れては消え去る
しかし、あなたの内なる大空は同じままー
触れられず、くもることもなく、傷つくこともない
われらは、その内なる空を<観照者(サクシン)>と呼ぶ
それが瞑想のゴールだ
内側に入り、内なる青空を楽しみなさい
しかし覚えておくことだ
あなたが見ることのできる対象(もの)は何であれ
それは、あなたではない
思考を見ることはできる
それなら、あなたは思考ではない
感情を見ることができる
それなら、あなたは感情ではない
夢、欲望、記憶、想像、投影を見ることはできる
それなら、あなたはそういうものではない
見られるものすべてを消し去ってゆきなさい
そうすれば、いつの日か、とてつもない瞬間が起こる
人生においてもっとも意義深い瞬間
拒絶されるべきものが何も残されていない瞬間がー
「見られるもの」すべてが消え失せ、「見る者」しかいない
その「見る者」こそが内なる青空、虚空だ
それを知ることは怖れがなくなること
それを知ることは愛に満ちてること
それを知ることは神であること、不死であることだ
この本によって、あなたは自分自身の内なる青空を体験するよう招待されています。師に対する私の感謝と愛は、とうてい言葉には置き換えられません。かろうじて涙だけが私の感じている何かを伝達できます。彼の自由への呼びかけを聞くことを通じて、私は生の一瞬一瞬がもたらすことのできる楽しさや優雅さに目覚めはじめています。
ありがとうございます、愛する師よ。
ースワミ・デヴァ・ワドッド
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「瞑想」とはよーするに、「観照」出来るようになるためのツールであり、
ワークショップで皆で「瞑想」しても、日常生活で「観照」出来なかったら意味ありません。
「瞑想」に関しては、ある人には勧めて、ある人は勧めなかった・・というのがペルーの先生のスタンスでしたが、
人それぞれの「時期」と共に、集合意識的なタイミングもあるのかもしれず、
そういう意味では今こそ、静かに「瞑想」するには最適な時期なのかもしれませんね〜
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