酵素カフェ

OSHOが語る幻想の「愛」「瞑想」とリアルの違い

日本全国の神々が出雲大社で「会議」する・・とか言われている、10月・神無月が終わったとたん、

11月1日、北茨城を震源とする震度4の地震があり、

八王子から京王線に乗った24歳男性が調布市内を走行中に無差別暴行を起こし、

そして今日11月2日、吉祥寺で道路が陥没しちゃいました!

調布に「現場」があった旦那さんの話では、半年前、現場前の駐車場が陥没したとのことですが、

テレビで報道されるかしないかで、「騒ぎ」になるかならないか・・が決まるようで、

一昨日、実家の母は「コロナはどこに行っちゃったのかね〜」と言ってましたが、

ひょっとして、これから(アフターコロナ)の方が大変なのかもしれず、

全国区な神様会議で、イイ案が出たことを期待しましょう〜

春夏秋冬、穏やかな自然に恵まれた、

日本人は、神も仏も「平等」に、何となく信じている方が多いですが、

子どもの頃、絵本で読んでいた「一休さん」って、室町時代の臨済宗の方で、

こういう「歌」を残してくれてます。

**************

ひとり来てひとりかへるも迷なり
きたらず去らぬ道ををしへん

世の中はくふてくそしてねて起きて
さてそのあとは死ぬばかりぞ

死にはせぬどこへも行かぬこゝに居る
たづねはするなものは言わぬぞ

なにごともみな偽の世なりけり
しぬるといふもまことならねば

道はただせけん世外のことゝもに
じひしんじつの人にたづねよ

**************

カタカムナの歌もそうですが、日本人ならなんとかく「わかる」感じで、

一連の「米大統領戦&コロナ騒ぎ」で、まさに、

「なにごともみな偽の世なりけり」

を、実感しましたが、

21歳で覚醒したインド人、OSHOさんはこの歌を題材に、

幻想の「愛」「瞑想」と、リアルな「愛」「瞑想」の違いを、語ってくれています。

ある僧が師の百丈に尋ねた。
「ブッダとは誰ですか?」
百丈は答えた。
「おまえは誰だ?」

ブッダたちの目的は、あなたを変容させることであって、あなたに知識を授けることではない。
彼らはあなたの意識に根源的(ラディカル)な変化をもたらしたい。彼らはあなたの根底そのものを変化させたい。
彼らはあなたに新しい目を、新しい冴えをもたらしたい。彼らの目的は知識を授けることではない。
彼らはある知識を伝えるためではなく、ある実在を転移させるためにそこにいる。彼らは光をあなたと分かちあいたいーー。
目的は知識を授けることではなく、光をともすことだ。

それゆえに、彼らはあなたの質問が何であるかを気にかけない。彼らの答えはひどく的はずれで、不条理に見えることがあるかもしれない。が、そうではないーー。それらにはまったく異なる種類の適切さがある。それらにはあなたの質問ではなく、”あなた”に関わる。・・

彼は問いを、問うもの自身に投げ返す。彼は問いのなかから剣を造りだし、まさにその心臓を貫く。
彼は言う。「”おまえ”は誰か? ブッダたちのことは訊かなくてもいい。ひとつの問いだけ発するがいい。『私は誰なのか』そうすれば、仏陀が誰であるかわかるだろうーー」なぜなら、すべての人がブッダたる潜在能力を備えているからだ。自分の外を見る必要はない。

老子は、真理を見出すために部屋の外にでていく必要はない。扉を開ける必要すらない、目を開ける必要すらない、と言う。真理とはあなたの実在だからだ。それを知ることがブッダフッドだ。・・・

師(マスター)の仕事は、あなたを根本原因に連れてゆくことだ。あなたがたのいわゆる恋愛は、すべて逃避に他ならない。私はあらゆる恋愛関係を含めていっている。画家は絵を描くことに恋をしている。・・そして、求道者や探求者や詩人や画家だった人々は、つねに独身で通した。それはただの偶然ではない。彼らは別の種類の恋愛をしている。彼らは女性を必要としない。彼女たちは男性を必要としない。・・・

もし愛が可能でなかったら、人は独りだ。愛はぜひとも実現可能なものに仕立てあげられなければならない。たとえ可能でないとしても、それを創り出し、信じ込まなければならない。もしそれが不可能に近いなら、そのときは幻想を生み出さなければならないーー。自分の孤独を避ける必要があるからだ。

独りのとき、あなたは恐れている。いいかね、恐怖は幽霊のせいで起こるのではない、あなたが独りのとき、恐怖はあなたの孤独からやって来る。が、私たちはその原因を隠しつづける。なぜなら、その原因を見抜くことは、その洞察によって変容されることだからだ。

森のなかを独り進んでゆくとき、実際、あなたが恐れているのは幽霊や泥棒や盗賊ではない。というのも、彼らはむしろ人ごみのなかにいるからだ。森のなかで彼らは何をすると言うのだね?彼らの犠牲者はみな、ここで手に入る。

部屋に独りでいる、あたりは暗い、あなたは幽霊に怯えているのではないーー幽霊はたんなるマインドの投映だ。あなたはほんとうは自分の孤独が怖いのだーー。それが幽霊だ。突然、あなたは自分自身に直面しなければならない。そして、関わるすべはない。あなたは大声で叫びつづけてきたが、誰ひとり耳を貸す者はいない。あなたは暗闇を手探りしてきたが、あなたを抱きしめる手にはけっして出会わない。あなたはこの寒々とした孤独のなかにいた。誰もあなたを抱きしめてくれない。そこにはあなたを抱きしめる人はいない。あなたを暖めてくれる人はそこにはいない。

これが人間の恐怖、苦悶だ。もし愛が可能でないとしたら、そのときには、人は独りだ。だからこそ、愛はどうしても実現可能なものに仕立てあげられなければならない。それは創りだされねばならないーーたとえ偽りであろうと、それは創りだされねばならない。人は愛しつづけずにはいられない。さもなければ、生きることは不可能になるからだ。・・あなたは幻想のなかにとどまりつづけたい。・・

共にあることは幻想だ。孤独はより根源的だ。愛は幻想だ。瞑想はより根源的だーー。しかし、究極的にはそれもまた幻想だ。それこそ一休がさらに一歩を進め、量子的跳躍をする地点だ。あなたはこう語られるのを何度も耳にしたことがあるーー「われわれはこの世に独りでやって来て、独りで去ってゆく」
だが、一休は言う。

・・・・迷なり
きたらず去らぬ道ををしへん

それが禅、純粋な禅だ。ありふれた宗教は、愛は幻想だと説く。禅は最終的に、瞑想すらも幻想だと説く。はっきりさせておこう。愛とは共にあることを意味するーー共存の可能性。互いのなかに失われていく可能性。コミュニケーションの可能性。関わりの可能性。

愛が挫折すると、完全に挫折すると、あなたは瞑想に向かいはじめる。瞑想とは独りであることを受け容れる能力を意味する。それらは対極だ。愛と瞑想、瞑想とは、関わらない能力を言うーー関わる必要はない。人はひとりで充分だ。

多くの人々が愛の世界に執着しつづける。少数の人々がそこから逃れ、瞑想の世界に執着しつづける。禅は言う。もし瞑想の世界に執着したら、自分の孤独にしがみつきはじめたら、あなたは依然、<真実そのもの>からはるかにかけ離れている、と。共にあることが虚偽だとしたら、孤独が真実でありうるはずはないだろう?

これは禅が宗教の世界にもたらした大いなる革命だ。共にあることが虚偽だとしたら、そのときには孤独もまた真実ではありえないーー孤独とは、共にあることの脈絡においてのみ理解されうるからだ、もし愛が虚偽だとしたら、そのときには瞑想もまた真実ではありえない。愛に背を向け、瞑想することにした者だち、彼らはひとつの極を選んだ。だが、極はもう一方の極に依存する。

考えてみるがいい。暗闇が虚偽だとしたら、いかに光が真実でありえよう?・・もし”私”が虚偽だとしたら、いかに”あなた”が真実でありえようーー?あるいはその逆も。それらは対をなして存在する、愛と瞑想は永遠に結ばれた恋人だ。
そして、もしマインドの作用を静かに観察したなら、あなたはそれが絶え間なく起こっているのを目撃するだろう・・・。

愛は独りであることの必要性を生み出すーー独りであることはかならず愛を通して起こる。そしてあなたが独りのときは、孤独が愛することの必要性を生みだすーーそれはかならず独りあることを通して起こる。それらは相棒(パートナー)だ。同じ商売の相棒だ。・・

瞑想と愛は一対に、一組になっている。それらは共にある。それらは永遠に結ばれているーー陰陽、それらは互いに離れられない。
それゆえ、こう語るとき一休は完全に正しい、

ひとり来てひとりかへるも迷なり

愛は幻想であり、瞑想もまたそうだ。瞑想のよい点は、それがあなたを愛から連れだすことができることでしかない。だが、それにしがみついてはならないーーそれはあなたを愛の幻想から連れだすための方策にすぎない。それはあなたを愛の幻想から連れ出す。が、そうなったら、ただちにそれも落とさねばならない。さもなければ、あなたは瞑想という新たな幻想を生み出しはじめる。クンダリーニが昇ってくるとか、チャクラが光を放つとか・・・、千にひとつのものごとを。それらは”霊的(スピリチュアル)な体験と呼ばれる。そんなものは霊的でも何でもない。それらはたんなる想像の産物だ。・・

一休は正しい。彼はこう言う。「人は愛を超越し、さらに瞑想を超越しなければならないというのが真実だ」と。人は関係を超越しなければならない。そして人は孤独を超越しなければならない。共存と独存、その両方は消えたら、何が残るのか? 残るものは何もない。その<無>が存在の味だ。
あなたは独りでもなければ、共にあるのでもない。実のところ、あなたはいない。

きたらず去らぬ道ををしへん

だとしたら、あなたはどこへ行けるのかね? 行く誰がそこにいる? あなたはどこから来ることができるだろう? 来る誰がそこにいる? そうなったら、去来することいっさいが消え、つねにあるものが知られる。永遠なるものが知られる。去来することはすべてただの夢、時間現象、シャボン玉、一時的なものだ。

この一時的なものがすべて落とされ、コミュニケーションが不可能であること、関係が不可能であることを見抜くと、あなたは孤独のなかに入りはじめる。そうなったら、やがてあなたは別の現象、つまり孤独もまた不可能であることに気づく。そのときには、ありふれた過程(プロセス)をたどって愛に戻るより、むしろ”独りであること”からさえも飛びだすがいい。あなたは深くジャンプする。

あなたは”二”から”一”へと入り、”一”からあなたは<無>ーー<一でないもの>へと入る。それが”不二”、非二元だ。あなたはそれを”一”と呼ぶことすらできない。が、それが源泉だ。それが大洋だ。私たちはその波だ。そして、その大洋を見ることによって、あなたは自分が一度も生まれてことがなく、死ぬこともないことを知る。あなたの全存在は夢の存在だった。すべてが消えた。

仏陀は、愛のなかにいようとしたり、独りでいようとしたりするこの傾向を、踏みとどまろうする自我(エゴ)の性向と読んでいたーー。関係の中にあっても、関係の外にあっても、とにかく自我はとどまることを欲する。恋人としてであろうが。瞑想者としてであろうが、とにかく自我は存続することを欲する。仏陀は、この性向を”無明”、無知と呼んだ。

憶えておきなさい。”無明”とは知識がないという意味ではない。それはたんに無自覚を言う。無明とは自我を絶対的なものとして扱おうとする性向だ。これが人と宇宙のあいだに間隔を生みだすーー。人が世界との正しい関係についてないのはそのためだ。この曲解こそが仏陀が”無明”ーー無知、無自覚と呼ぶものだ。・・

だが、心に留めておくがいい。さもなければ、あなたはことの全体を間違って解釈しかねない。あなたが愛と呼ぶものが消えると、別の種類の愛が誕生する。あなたはそれにまったく気づいていない。瞑想が消えると、まったく違う種類の瞑想性が生まれる。それはあなたの思いもよらないものだ。あなたの瞑想は努力ーー修練、教化、条件づけだ。この瞑想が落とされると、単純な瞑想的特質があなたの実存のなかに湧きあがる。あなたは、まったく何の理由もなく、ただ静かだ、けっして静かにしようとしているわけではない。・・落ち着こうと努力しているわけではない。あなたはただ落ち着いている。なぜなら防げる者がいないからだ。自我(エゴ)はそこにいない。障害の唯一の原因は消えた。あなたはただ穏やかだーー。穏やかであろうとしているわけではない。穏やかであろうと努力することは、たんにあなたがかき乱され、引き裂かれ、二つの部分に分割されていることを意味するーーあなたを黙らせようとしている者と、引きずられ、打ちのめされ、黙っている者。そこにはある種の葛藤があるーー。が、どうして葛藤が瞑想的でありえよう? 強要や暴力があるーーどうして暴力が安らかでありえよう?

ヨーガの体位やマントラを自分自身に強いつづけることで、何とか平静を保とうとしている者たちが安らかな人々でないと私が言うのはそのためだ。彼らはまさに、まやかし、虚善を生みだしている。

真実の人があなたの内に生まれるとき、本来の人があなたの内に生まれるとき、何者かであろうとする努力はいっさいない。人はただある。それが禅の自然な人だ。彼は愛するーー。が、誰かを必要とするからではない。彼が愛するのは、他にどうしようもないからだ。愛はそこにある。愛は流れている。そして、それを防げる者はいない。だとしたら、どうしようもないではないか? 彼は瞑想的だーー。が、瞑想するからではない。彼が瞑想的なのは、邪魔者がひとつも見つからないからだ。唯一の妨げの原因となる自我は、もうそこにはいない。分裂はもうそこにない。彼は<ひとつ>だ。落ち着き、穏やかで、まとまっている。

そして、これはすべて、ただ自然発生的だ。禅の人々が禅の真人を霊的(スピリチュアル)と呼ばないのはそのためだ。彼は現世的でもなければ、霊的でもない。彼は世間にありながら、しかしそれに属してはいない。彼は市場に住んでいるが、市場は彼のなかに住んでいない。

今後は「ライト(軽い)スピリチュアルが流行る・・」とのことですが、

ライト級だろうがヘビー級だろうが、自我の幻想ゲームの中での「愛」「瞑想」と、

リアルな「愛」「瞑想」には、大きな違いがあるのですね。

しかし大切なことは、地球という学び舎で「幻想ゲーム」を体験することによって、

「別の種類の愛」「まったく違う種類の瞑想性」が生まれる・・という順序ですので、まずは自分の「自我」に自覚的になることが大切です。

そして、一連のプロセスは「ただ自然発生的」 ですので、

何事も無理強いせず、「来るもの拒まず去るもの追わず」でいればOKだと思いますよ〜

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