酵素カフェ

共通する覚醒者達のエンライトンメントと「黒い鼻のブッダ」

古代ギリシアの格言「汝自身を知れ」という言葉を知っていても、

真の意味で、ホントにその言葉を「体験した」人は稀であり、

2000年に出会って、2012年に宇宙に帰還したペルーの先生とは12年間のお付き合いでしたが、

2006年の冬、ある朝起きたら「ソレ」が起きたとのことで、

ソレ以降、「何が起きても楽しくてしょうがない・・」と言ってました。

ソレが起きる前の6年と、ソレ以降の6年との「違い」は、ちょっと目にはわからないけど家族には顕著で、

出会った頃は、ミラクルな体験談をよくしてくれましたが、

ソレ以降はほとんど語らず、しかし、キネシオロジーだけはよく使ってました。

そして時々、すごいドンピシャなことを言ってくれるのだけども、後でそのことを聞くと、

「えっ、そんなこと言った?」と、ホントに忘れてましたネ(笑)。

そんな先生が晩年、OSHOはたまに読んでいた・・と、ペルーラムさんから聞ききましたが、

「光明を得た」方々は、時空を超えて「同じ」であり、「自分自身を知ることで」すべてを知る方々だとOSHOさんは言ってます。

あなたはどのようにしてイエス、仏陀、クリシュナ、ツァラトゥストラ、そして老子を知るのですか?

それは私が彼だからだ。そして、あなたもまた彼らだ。目を覚まして、知りなさい。クリシュナや仏陀やキリストは歴史の一部ではない。彼らはあなたの存在の一部だ。彼らはあなたの存在のなかのいくつものの段階だ。あなたは、キリストを知るために歴史を調べる必要はないーー調べる者たち、彼らは愚行を演じているだけだ。

あなたは内側へ向かわなければならない。あなたはイスラエルではキリストに出会わない。あなたは20世紀さかのぼることではキリストに出会わない。ちょっと内側に入りなさいーーそこに真実のイスラエルがある。それは時間に入り込むという問題ではない。それは時間を超越するという問題だ。すると、まさにこの瞬間、あなたの意識は時間を超えて存在している。

質問は的を射ている。人々は、私がどうやって一休のことを知るのだろうと不思議に思う。私は一休のことは何も知らない。が、私は自分自身のことを知っている、私が、覚醒したすべての人を知ることができるのはそこだ。一休、あるいはクリシュナ、あるいはキリストを、ひとりの人物として知ることが問題なのではない。彼らは人物ではない、彼らは<覚醒>の極致だ。もしあなたが醒めていたら、あなたにも彼らがわかる。・・

私はたんに自分に起こったことを述べているだけだ。それは別の形では起こりえないーーそれは別の形では一度も起こりえなかった。エンライトンメントの風味は同じだ。それが誰に起ころうと、何の違いもない。いつ、いかなる時代に、どんな国で起ころうと、何の違いもない、それは永遠の、時間のない世界だ。

ひとたびあなたが自分自身を知れば、あなたは過去のすべての覚醒者たちを知ったことになる。それだけでなく、未来のすべての覚者たちーーまだ起こっていない者たちですらをも。自分自身を知ることで、あなたはすべてを知るに至る

最近、ベンガル・ピノちゃんのしぐさやお顔が、日本ドラネコ・故クレちゃんにますます似てきてるのですが、

いろいろな猫種があっても、猫は猫として「ひとつ」であるように、

人間は「三位一体」の存在として「ひとつ」であることを、「光明を得た」方々は体験するので、他者のことも「わかる」のでしょうね。

そういえば最近、「レジリオンス」参加者さんから、こちらの書の紹介をいただき、

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いままでの知識が点と・がつながり線になり
それがほどけていくような感じがしております
(こちらの本では知識ではなく叡智と言ったほうがいいのかな)
そんな時にイルカさんのブログの<光明>を読んで
なんか連絡したくなって連絡しちゃいました!笑

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まだ読んでませんが、「光明を得た」方が書かれたのもしれませんね〜〜

●覚者はほとんど表に出てこないせいか、その著作を見つけるのは至難の業で、これまではインドの覚者が書かれた本やイエスのチャネリング本などを読んできました。例えば、前者で言えば、パラマハンサ・ヨガナンダやラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、クリシュナムルティなど、後者で言えば、奇跡講座や心身の神癒(マクドナルド・ベイン著)でした。
そして、今回、ついに我が日本の覚者によって書かれた著書を発見しました。それがこの葦原瑞穂さん(本名は永留祥男さん)によって書かれた黎明(上下巻)です。
まさに地球の次元が上昇しつつある今の時代にとって、私たち人類の財産です。翻訳者を介していないので、著者の考えが直接伝わってきて、今まで読んだ覚者の本の中で最も分かりやすかったです。
悟りや目指めに興味のある方には必読です。

アマゾンレビューより

さて、「地球の次元が上昇しつつある今の時代」であっても、「汝自身を知れ」は同じであり、

自分の全てを「愛する」ことが出来れば、この世のすべてを「愛する」ことと同じになるのですが、

しかしながら、この「愛」という言葉は、あまりに安易に使われ過ぎてる感があり、

OSHOさんは、この「黒い鼻のブッダ」という禅の逸話を使って、

光明を求める尼が木彫の仏像を作り、それに金箔をかけた。
それはとても愛らしく、出かけるときはいつも、彼女はそれを携えた。
数年たった。
尼は、まだ仏像を携え、小さな国の寺に腰を落ち着けた。
そこには、ひとつひとつの堂のついた仏像がたくさんあった。
尼は毎日、自分の金の仏像の前に、線香を焚いた。
だが他の像にその香りが流れるのを嫌い、煙が自分の像だけにのぼるように煙突をこしらえた。
これが金の像の鼻を黒くし、特別醜くしてしまった。

代用品の「愛」トリックを語っています。

道を旅する者誰もが直面する、もっとも大きな問題のひとつが、愛と執着をはっきり区別するということだ。それらは同じように見えるがーー同じではない。似ているように見えるがーー似ていない。むしろ逆に、憎しみの方がまだ、執着より愛に似ている。執着はまったく正反対のものだ。執着は、憎悪という事実を隠して、愛を見せかける。執着は、愛を殺す。執着、所有ほど、非常に有害なものは他にない。だから、これを理解しなさい。それから、この素晴らしい逸話に入るとしよう。

それは多くの人に起こった。あなたにも起こっているーーなぜなら、マインドが、愛と執着をあまりに混同しているからだ。そして外側からものを見る者たち、彼らは、つねに犠牲者になる。執着は、いかにも愛のように見える。そして一度、執着、所有を愛としてしまうと、あなたは、つねに真実を取り逃しつづけるようになる。あなたは、偽物のコインを選んでしまった。これこそが真実だと思い込んでいるために、あなたはもう、本物のコインを探そうとはしない。あなたは欺かれてしまった。

所有、執着は、偽りの愛だ。憎悪の方がまだましだ。少なくとも、憎悪は真実であり、事実だからだ。それに憎悪はいつの日か、愛になり得る。だが、所有が愛になることはない。・・なぜ執着は、愛のように見えるのだろう?そのちがいは何だろう?そのからくりは微妙だ。・・

愛とは、相手の中に自分自身が溶け去る用意がある、ということだ。それは死だ。可能な限りの、もっとも深い死、あなたが落ちて行くことのできる、ずっとずっと落ち続けることのできる、可能な限りのもっとも深い淵だ。・・底はない、愛は相手の中へと永遠に落下するすることだ。けっして終わりはない。愛するということは、自分自身を失えるほど相手が大切になってしまったということだ。愛は明け渡しだーー無条件の、なぜなら、条件がひとつでもあれば、相手ではなく自分が大切になっている、ということだからだ。そのとき、自分が中心だ、相手ではない。自分が中心であれば、相手はただの手段だ。あなたは相手を使っている。相手を搾取している。相手から満足を得ようとしているーー自分が、その目的になっている。愛は言う。「相手を最終地とするのだ、そして溶解し、溶け込め」それは、ひとつの死の象徴だ。ひとつの死のプロセスだ。だからこそ、人々は愛を恐れる。あなたは愛について語るだろう。愛の歌を歌うだろう。だが深いところでは、愛を恐れている。絶対に愛に入ろうとしない。

あなたたちの詩、あなたたちの愛の歌はすべて、愛に入ることなく歌えるように、愛さずに愛していると感じるようにするための代用品にすぎない。そして愛は、愛なしには生きられないほど、深く必要なものだ。本物であろうが、代用品であろうが、必要になる。代用品は偽りかもしれない。だが、しばらくの間、さしあたって自分は愛に在るという感じを与えてくれる。偽物でさえ、楽しむことができる。遅かれ早かれ、それは偽りだったと知ることになる。
それでもあなたは偽りの愛を、本物の愛に変えようとしないーーあなたは、愛する人、愛しい人を変える。

可能性は二つある。この愛が偽りだと知って、変化させることができる。この偽りの愛を落として、真の愛の人になることができる。もうひとつの可能性はパートーナーを変えることだ。あなたたちのマインドは、このように機能する。「この愛は、約束したはずの至福をわたしにくれなかった。それどころか、もっと惨めになってしまった」。ーー相手が欺いている。自分は欺いていないと、あなたは思う。

自分自身のほかに、自分を欺ける者はいない・・・あなたは、相手が欺いている、相手が責任を負うべきだと感じる、妻を変え、夫を変え、導師を変え、神を変え、ブッダの寺院からマハヴィーラの寺院へと移動し、宗教を変え、モスクには行かず教会に行くーー相手を変える。そうしてふたたびしばらくの間、あなたは愛に在る、と感じる。だが遅かれ早かれ、偽りと知るーー満たされないからだ。自分自身をだますこともできる、だが、どれほど長く自分をだませるだろう・・・?そしてまた、変えなければならないーー相手を。

ペルーの先生は、決して「離婚」を否定してませんでしたが、よく「ご主人を大切にしなさい」と言っていたのは、それは「自分を大切にする」と同じだからなんですね。

「愛」トリックにハマっていると、執着から抜け出せませんが、

「憎悪はいつの日か、愛になり得る」とのことで、バッチフラワーの臨床的にもナルホドです。

「愛と憎しみ」に使われれるバッチフラワーはホリーですが、

長らくスピリチュアルなことをやってる方が、大きな変化が起きる前にホリー状態になる時がよくあり、そういえば、先のレジリオンス参加者さんも、キネシオロジーでホリーがヒットしてましたし、自分にも出てましたネ(笑)。

12月8日の清里高原は冷たい雨でしたが、雪にはならず、

南アルプスの上の方は雪が降ってるのか、

まるで「ライン」のようになってるのが印象的でしたが、

いつも見ている風景でも「全く同じ瞬間」は二度となく、

お天気と同じく、いつも同じ感情状態ではナイからこそ「気づける」次第で、

たまには全天候型の人工的な施設もイイけど、やはり、リアルな自然が心地イイように、

一度、代用品でない「愛」を知ったら、「偽り」には満足できないようになるのでしょうね〜

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