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セスが語る「輪廻転生と蓋然性=多次元性」とラッキーを呼ぶ「完全に在る」直接対話

「古希祝い」は本来、「数え年で70歳」でしたが、

現在では「満」でやるようになったのは、やはり「ラッキー7」の影響でしょうか?

古希祝いは、中国の詩人である杜甫(712年―770年)の詩句「人生七十古来稀なり」(70歳まで生きる人は古来より珍しい、希少である)に由来するとされています。・・

本来、古希は数え年の70歳、つまり満年齢では69歳の時にお祝いしていましたが、現在では、満年齢で70歳を迎える年にお祝いをすることが一般的になっています。

https://lovegreen.net/flower/p148933/

古希のことを知ったのは、昨年、3ゾロ目の還暦「お祓い」をした際で、神社では69歳が古希となってました。

「2×7=14」熊本地震と4拍手だった新潟・彌彦神社の「御祓」

今や古希どころか、米寿も卒寿も稀ではなくなった高齢化社会で、6月16日に卒寿となった父親は「白寿(100歳)はとても無理」と言ってましたが、

2022年「夜明け前」寅年に「レ・ミレジアム」で知った八幡・鹿児島大空襲

6月20日に大往生した木曽馬さんは人間なら110歳とのことで、

5度目の「木曽馬の里」で知った「まだ終わってないコロナ」ドン引き話

木曽馬さんに会いに行った6月23日は、たまたま旦那さんの誕生日だったので、

「木曽くらしの工芸館」に寄って、ちょっとした小物だけでなく、

古希祝いに大盤振る舞いしまして・・・
大盤振る舞いと言っても、〜万円とかではなく8800円で、

左のオレンジの漆塗りは、結婚祝いでいただいたモノですが、多分、〜万円でしょうネ。
「100均」でオシャレなテーブルウェアが揃う時代ですが、この朱色がとても気に入り、

「漆塗り」の伝統を絶やさないためにも、お祝い事の機会でゲットしました!

11月22日生まれベンガル・ピノちゃんの、里親お引き取り金額も88ゾロ目だったので、ピンと来ちゃった次第ですが、そういえば、このブログや、秘露農園のサイトを作ってくれたオカベ師匠も88ゾロ目でしたネ!

何気に続いている「レジリオンス」仲間で、前世からのご縁? とか思ったりもしますが、

「生まれ変わりは、わたしたちの成長全体に占める小さな一部でしかない」と言う、セス情報によると、

天気痛の改善法と「セス・マテリアル」に学ぶサル痘の「蓋然性」

前世という次元での関係と同様に、重要なほかの在り方があり、それは「非物質的な別次元で起きているのです」とのことです。

そして、「感情や気持ちこそ、どんな状況でも、またあらゆる次元においても、生命力というものを最も明確に表している」とのことで、

プレアデスなど、地球より少し進化した星の方々は、そういったことがわかっているのですネ。

セスをはじめ、2020年を超えてから、昔のチャネリング情報が大注目されているのは、夢物語ではなく、現実が「その通り」の展開になってきてるからだと思われ、

「輪廻転生」と「蓋然性=多次元性」の組み合わせで展開する人生の中で私たち人類は、

「あたうる限り完全に在る」を学んでいる・・というセスの話はとても腑に落ちました。

いずれにせよあなた方は、はじめて輪廻サイクルに入られた時より前から、みな旅人なのです。

できる限り簡潔にお話ししますが、あなた方は必ずしも全員が同じ背景を携えて物質的体系の現実(リアリティ)に入るわけではありません。・・地上での存在は訓練期間とも言えるものです。・・あなた方は、あたうる限り完全に在る、ということを学んでおられるところです。ある意味では自分自身を創造するという学びです。そして、それを輪廻サイクルのなかで行いながら、己の主たる能力を物質的生に集中させ、人間としての質や特質を高め、新たな次元における活動を切り拓いておられるのです。わたしは善が存在しないとか、あなた方の言葉で言う「進化」は起こってないと申しあげているのではありません。しかしながら、あなたがたの善や進化という概念は、著しく歪められているのです。

さて、特定の分野において非凡な才能を発揮される人格存在が多数おられますが、そうした才能は、続く転生のなかで幾度となく現れてきます。時には多少抑え気味に表現されたり、他の能力とのさまざまな組み合わせという形で発揮されることもあるようですが、それでも全体として見た場合、当の人格存在の個性や独自性を示す強力な特徴となります。

ほとんどの人々が輪廻サイクルを通じて、異なった職業や仕事や興味の対象などを採択しますが、なかにはそうしたものの連続性が極めて顕著な場合もあります。時にそうした連続性が絶たれたかに見えることがあっても、実際は常に存在しているのです。そうした人々はほとんどの転生において、例えば聖職者であるとか教師であることを選ぶのです。

輪廻転生については、本書の別のところでさらにまた論じていくつもりです。ここでは、転生と転生のはざまにくる「選択の時」には、復活への画策といった取り組みやすい問題だけでなく、他にも多くの問題が賭けられているということだけを指摘するにとどめたいと思います。

おりおり通例を冒して、例外的に輪廻の途中で(おどけた口ぶりで)安息日にあずかる場合もあります。本道から逸れてのおまけの旅が許されるとでも申しましょうか。別の現実(リアリティ)の層を旅してまわったあとで、再び輪廻のサイクルに戻ってくるというものです。しかし、これはそれほど頻繁にあることではありません。こうしたことも「選択の時」に決められます。

輪廻のサイクルを完了し、この体系を出ることを選択した人は、輪廻のサイクルに残る人以上にたくさんの決断を求められることになります。

確率的偶然性(蓋然性)の領域に入ることは、輪廻のサイクルに入ることと並び称される選択です。そのまるで異なる種類の現実(リアリティ)においても、集中度の高い意識や在り方が維持されます。確率的偶然性の領域に入ることを選んだ場合には、多次元的人格存在として保有していながら、それまでほとんど気づかれることのなかった潜在能力の開花が求められ、実際に行使されることになります。

確率的偶然性の領域での精神的体験は、既知の如何なる体験とも相当かけ離れたものですが、それでもその手がかりは、すでにあなた方の精神のなかにあるのです。そこでも人格存在は、これまでとまったく異なる方法で、しかもあなた方が知るところの時間の構造にいささかも頼らずに、出来事を分類することを学ばねばなりません。

他の現実(リアリティ)と違い、そこではついに知性と直感が手を取り合って機能していくのですが、あまりの自然さゆえに双方の識別が難しいほどです。

輪廻を体験することを決定する自己と、確率的偶然という体験を選ぶ自己は、同一の自己なのですが、確率的偶然の体系内での人格構造は著しく異なったものになります。あなたがよくご存知の人格構造は、あなた自身も通じているバラエティに富む「気づきの形態」のひとつにすぎないのです。

しかがって、確率的偶然の体系も、輪廻の体系と同様に極めて複雑です。さて、すべての行動が同時に起こっているということをすでにお話ししましたが、よって、あなた方は両方の体系に同時に存在しているとも言えるのです。しかしわたしの説明に「どちらか」を選ぶという言いまわしが含まれることや、それらの体験を「別々に」話していることから、ある程度の便宜的簡略化は致し方ないことかもしれません。全体自己のある部分は意識の焦点を輪廻サイクルに合わせて、そこでの進化に取り組んでおり、さらに別の部分が確率的偶然性に焦点を合わせて、そこでの進化に取り組んでいるとお考えくださればと思います。

以下の一文は括弧に入れてください、『もちろん、輪廻サイクルが存在しない確率的偶然の体系もありますし、確率的偶然性が存在しない輪廻のサイクルも実在しています。』人格存在が寛大で開放的で柔軟性に富んでいることが、極めて重要になります

存在に至る道には開かれる用意があり、人格存在にはその事実の認識を拒むことができるのです。

その一方で、すべての確率的偶然性の在り方は開放されており、そうした意味では、意識はこれまでになかったところに扉をつけることができるのです。こうした選択と決断の時には、案内役や教師たちが選択肢を提示してくれたり、存在の本質について説明してくれます。すべての人格存在が同じ進化レベルにあるわけではありません。したがって、教師のなかにも進化したものと、進化という点では前者にまだ及ばないものもいます。

だから故ペルーの先生は、「ワンちゃん猫ちゃんが先生だよ」と言っていたわけで、器の小さい「教師」には気をつけた方がイイですネ!

今朝早く、ピノちゃんと草原に行ったら、

予想通り、富士山側も、

八ケ岳側も、スッキリ晴れてまして、

今年は咲かないのかな〜だった、

町田の実家から移植したサツキも、

このところの気温上昇で、

どんどん咲きはじめています。

実家と隣接した親戚の土地で母は畑をしていたのですが、今はそこに住宅が建っており、売却の際にサツキを移植したのですが、何とか(清里の寒さに)耐えてます。

さて、昨日は早めにピノちゃん散歩を切り上げ、

「いわし雲」みたいになってる清里を後に、

南アルプス市に向かったのは、

一昨々日、南アルプス市で果樹農園をやってるSさんから「サクランボの木を切って沢山あるので持っていかないか?」と3年ぶりに電話があったからで、その際、「コロナのことを気にしちゃって・・ごめんなさいね」と言ってたのは、

ちょうど「コロナ騒ぎ」が始まった直後にも「持っていかないか?」と連絡があり、「ハイ、じゃあ、いつがいいですか?」と聞いたら、「近所の人が気にするから、(コロナが)収まってから・・」と言われ、そのままの状態だったからです。

で、久しぶりにSさんの農園に行ったら、隣の敷地(以前は果樹園)が新興住宅地になっていて、

農業がやりにくくなった・・と、畑に出ていたSさんの旦那さんは言ってました。

今までは、ちょっとした伐採物は燃やしていたのですが、煙が出ていると消防署に通報されちゃうとのことで、誰が通報したかは教えてくれない・・とも言ってました。

昔なら、直接「対話」して解決していた事柄を公的機関が請け負うようになり、お役所仕事も大変だな〜 という感じですが、

別の場所でSさんの伐採木を運んでいた際、面白いことがありました。

隣の家(地の人)の車が出ようとしているとかと思って、旦那さんが車を移動させたのですが、

そのオジさん、「何をしているのか、ちょっと見に来ただけだから」とのことで、「清里で薪にするので・・」と事情を説明しました。

そうしたらしばらくして「これ、放っておいても鳥が食べちゃうだけだから、食べれる?」と、そのオジさん、サクランボを持って来てくれたのです。

「寒河のも混じってるから・・」と言ってましたが、Sさんの話では、今年、南アルプス市のサクランボは不作で、豊作だった山形県から買っているとのことで、ちょっと話をしただけなのに、ありがたい話です。

不振に思ったお詫びの気持ちかもしれませんが、見知らぬ東京ナンバーがゴソゴソやっていたら「怪しい」と思いますよネ。

旦那さんの両親は山形出身で、義母が在命の時は毎年、超美味なサクランボを送ってくれていたのですが、
DSC_6906

この朱色の「果物入れ」を見た時、
とんとご無沙汰になったサクランボを思い出したら、

リアルなサクランボが入りました〜(家で計ったら800gもありました!)

祝い事に「器」が好まれるのは、器が大きい・・とか、人柄とリンクさせてるかもしれませんが、

「袖振り合うも多生の縁」という感覚を昔の日本人は持っていて、その感覚はセスの言う、

「輪廻転生」
「蓋然性=多次元性」

で、織りなされる人生の仕組みを、ごく自然にキャッチしていたのかもしれません。

ちなみにSさんの旦那さんは、うちの旦那さんと同じ名前で同い年ですからやはり古希ですネ。

サクランボの伐採木をもらいに行って、思わぬお土産ゲットで清里に戻ったら、

南アルプス市の方面、富士山側もクッキリな夕暮れ時でしたが、
いや〜〜クーラーいらずの清里と違って、暑くて暑くて・・ビックリ! 
 
しかしまあ「もうコロナは終わった」と、多くの日本人が感じているようで、

まだ大勢がマスクをしているのは「余計なトラブルを起こしたくない」だけなのかもしれず、

セスが言うように、

「あなた方は必ずしも全員が同じ背景を携えて物質的体系の現実(リアリティ)に入るわけではありません」

であるからこそ、直接「事情を聞く」「説明をする」のが、不安感を払拭する早道であり、

直接に会話することは、「完全に在る」訓練でもあると、しみじみ思った3年ぶりの南アルプス市でした!

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