「人間は考える葦である」と言ったフランスの哲学者・数学者であるパスカルは、
機械作りに没頭し過ぎて、39歳の若さで死去しましたが、
17歳の時には、機械式計算機の構想・設計・製作に着手し、それを見事に2年後に完成させた。これによって、父親の徴税官の(計算の)仕事を楽にしようとしたのだ、とも言われている。またこの計算機の設計・製作に過度に没頭したことが、パスカルの肉体を傷め、病弱となり、寿命を縮める原因のひとつとなった、とも言われている。
この歯車式計算機「パスカリーヌ」は、
17世紀の人々にとっては、今でいうコンピューターのようなものだったと思われ、
パスカルは、庶民でも気軽に利用出来る「乗り合い馬車」を考案、創業したり、
同時代(17世紀)の思想を代表する合理主義哲学者ルネ・デカルトが二元論的な「明晰判断」を重視したのに対して、パスカルさんは、
「われわれは、真も善も部分的に、そして悪と偽と混じったものとしてしか持っていないのである」
「判断こそ、直感に属するものである」
「繊細は判断の分け前であり、幾何学は精神の分け前である」
といった、深イイお言葉を残しており、
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろう」
も、パスカルのお言葉ですが、このパスカルさんは、
宇宙とは、「多次元的」であることを察知していたようです。
パスカルは、多くの哲学者や神学者が行ったような神の存在証明を行ったわけではない。パスカルは、そもそも異なる秩序に属するものであることから神の存在は哲学的に(論理学的に)証明できる次元のものではないと考え、同時代のルネ・デカルトが行った証明などを含め哲学的な神の存在証明の方法論を否定していた。
で、「人間は考える葦である」という言葉は、一人一人の人間精神が宇宙を創っているということを意味してますが、
考える葦。
私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。
パスカル哲学の真髄は、「物体・精神・愛」の「秩序の三段階」であり、
精神よりもさらに「小さな愛」のほうが偉大であるとしています。
「あらゆる物体の総和も、あらゆる精神の総和も、またそれらのすべての業績も、愛の最も小さい動作にもおよばない。これは無限に高い秩序に属するものである」
フランス革命(1789年)前のヨーロッパには、モーツァルトなど、宇宙とつながっていたかのような天才がしばしば出現してますが、
神聖幾何学を「知ってる」次元から地球に降りて来たドランヴァロ氏は、
人間の肉体とは「聖なる神殿」であり、
「スプリットと肉体が一緒になるならば、驚くほどの力を発揮します。いったんスプリットが肉体の使い方を知るようになると、人間は何でも出来るようになります」
と言い、そのためには人間の考える中枢を脳ではなく、「ハートの聖なる空間」に置くことが不可欠だとします。
で、「ハートの聖なる空間」にいると、実際にどんな感じになるのかを、
以前、ゼロ・ポイントフィールドでご紹介した、
ソロ・パブリッシュさんが、上手く表現してました!
<思考音量が小さくなると>
2017.8.21(月)
思考しているときにこれが思考だとわかる、
これが習慣化すると、
思考のボリュームが非常に小さくなります。ボリュームというのは実感的表現ですが、
存在感が薄くなって、引力がぐっと減る、みたいな感じ。
すると、いろいろとタスクが多い日でも、
「タスク」とか「多い」とか「日」といった思考がない、
あるいはボリュームが小さくて、直感、直観だけで身体が動くので、
終わっても「これだけやり遂げた」的な実感はなく、
常に「時間0(ゼロ)」にセットされている感じです。線形時間ふうにいって、かつてこれほどストレスがなかったことがあったろうか、というくらいストレスがなく、明晰で、澄んでいます。
退屈することもないし、「いつもと変わらない生活」といった間延び感もなし。ほんと、驚いたことに、考えなければ考えないほど明晰になります。
<時間で考えるのをやめた世界>
2017.8.16(水)
言葉のうえで理解していても、無意識、半意識でずるずるっと時間思考に
入りがちなのは、やや深いところで、①行動強迫(先を予測しておきたい、to doリストがないと不安)
②退屈(①が習慣化していて、思考の空白に耐えられない)という<人類>の共有フレームからくる縛りがあるためです。
この縛り自体が線形時間思考にもとづいているので、大枠の線形時間思考が具体的な諸場面を機に線形時間思考を繰り出すというめんどくさいことになってるんですが、具体的な諸場面で起きる時間思考に気づいて、デリートする、これを反復していると、おおもとの縛りのほうも解けてきます。で、反復しているうちに、あるときふっと、はじめて自転車に乗れた的な瞬間がきて、ストレス四散、すっきりを超える状態がくるんです。
一瞬で、時間思考にともなう重さ、暗さ、停滞、閉塞から解放され、同時に、ふわっと、大きな委ねる感、明け渡しの感じがやってくる。瞑想時に、思考ひゅんひゅんがフェイドアウトして、いつのまにか“あれ”がやってくるときの、あの感じですよ。
もちろんそうなっても、そのとき食器を洗っていれば、手が止まって幽体離脱、などということにはならず、作業はつづきます。ただ時間思考とともにあらゆる思考が消えてるだけ。
午前中にそういうことが起きても、午後には線形時間思考にハマって、きりきりと前倒しで鬼働きするとか、後ろ倒しの用事の嵐に圧倒されるとか、それもアリです。
でも何度か反復されて、線形時間思考のない状態に慣れていくと、気がつくのが早くなり、時間思考の伸び幅も縮小して、物理界は線形時間思考なしでもイケるということがわかってきます。
線形時間とは、デカルト・ニュートン的な因果関係が作動する世界なので、
「あの時、あーやっていたら・・」とか、
「何であの人はあんな事をしたのだろう・・」
といった、堂々巡りの線形時間思考にハマってる時は、
多次元的で非線形的な、宇宙とのつながりが弱くなってしまいますが、
そういった「線形時間思考」にハマっていることに気づいたら、「ハートで感じる」観察を習慣づけると、
「一瞬で、時間思考にともなう重さ、暗さ、停滞、閉塞から解放」
され、無尽蔵の宇宙エネルギーが注がれます。
自分の場合、「線形時間思考」をハズすツールとして、バッチフラワーが役立ってますが、
ソロ・パブリッシュさんのハズし方は、よりダイレクトです!
<時間「で」考えるのをやめるコツ>
2017.8.17(木)
胸部の中心の奥に、ごく小さな、米粒よりもっと小さな点があるのをイメージします。
針の先くらいの、ブラックホールっぽい点。
これが魂のシード(のイメージ)です。
ここが重心であり、支点です。これを軽いタッチで意識すると、
時間思考のデリートとか明け渡しとか、
観察ができていようがいまいが、全部オートでイケます。
やり方はそれぞれでも、「ハートの聖なる空間」こそ人間機能の中枢であり、
「人間はハートで考える葦である」と言った方がふさわしいようですネ!
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