これは長野で咲いた福寿草で、春の訪れを感じますが、「あの日」という手記が出版され話題になってる小保方晴子氏は、
兵庫県警が受理した「ES細胞盗難の告発状」のもと、事情聴取を受けました。
小保方氏はこの手記で、
「私がES細胞を混入させたというストーリーに収束するように仕組まれているように感じた」と綴ってるそうですが、まさにその通りの展開です。
日本の素晴らしい発明が、外国にまんまと持っていかれてしまうパターンは、過去には「トロン」という画期的な基本OSの例がありますので、
もし小保方さんの「STAP細胞」研究が本物なら、二の舞にならないことを祈ります。
たとえ自分に否がなくても、警察から参考人として呼び出されるのはかなりの心理的圧迫になりますが、
もう散々叩かれ続けた小保方さん、少々のことでは、へこたれない筋肉つけているかも知れません。
さて、筋肉隆々だけども「覚せい剤」に走った清原さんは、
「150回分の使用量にあたる覚せい剤を1カ月で使用」し、
医者曰く、「人によっては、死んでいてもおかしくないような量だった」で、
生まれもっての「体力」には恵まれていたようですが、家族愛には恵まれなかったようで、離婚後、子どもと面会した夜はいつも、空虚感からか「死にたい」と漏らしていたそうです。
そろそろフェードアウトしたい清原騒動ですが、
おかげさまで、深沢修一という往年の野球選手のことを知ることが出来ました。
1971年「広島時代」
・広島、若手のホープ・深沢がシーズン終盤の活躍が認められ、米大リーグの教育リーグ参加がゆるされた。野崎コーチ、国貞、水谷、水沼らのチームメイト、それに大洋勢も合流して、10月末出発。二十日間ほど滞在して技術をみがくが「バッティングはもちろんだが、ベースランニングについて特に勉強したい」と瞳を輝かせながら渡米。
深沢は甲府工から42年巨人入り、44年のシーズン途中、広島に移籍した。巨人時代は投手が主で、それも打撃投手の域を出なかったが、広島入りをしてからは、俊足、強肩が認められて野手に転向。遊撃から外野へとまわされ、徹底的にシゴかれた。出場のきっかけは主砲・山本一の負傷。これをものにした。鉄砲肩と俊足を生かしての守備範囲の広さに加え、シーズンを終えて打率も279をマーク。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1383019608
この深沢元選手は、八王子〜清里の帰り道に寄ってる「韮崎旭温泉」の常連さんで、
お互い名前も知らぬ「裸のお付き合い」だったのですが、
今回の「清原騒動」で、他の常連さんから「深沢さんみたいに腰の低い人もいるのにね・・」という話題になり、バッティングセンターを経営してるという体格のいいおじさんは、元野球選手だと知った次第です。
深沢修一氏はホント謙虚で「きっと苦労したんだろうな・・」という印象です。
深沢修一
甲府工業高校では、後に阪急ブレーブスの正捕手として活躍する中沢伸二の2年後輩であった。1966年、3年生の時に、3番打者、中堅手として夏の甲子園に出場。
準々決勝で小倉工の横山晴久投手に抑えられ敗退。高校同期に西村公一(卒業後、阪神タイガース→プロゴルファーに転向)がいる。同年11月、ドラフト2位指名で投手として読売ジャイアンツに入団。
しかし入団直後に肩を壊し、外野手に転向するも公式戦に出場する機会が無く、1968年5月に川内雄富外野手との交換トレードで広島東洋カープに移籍。1971年には控え外野手の一番手につけ、206打席に立ち、打率.279の好成績をあげる。その後は打撃面で伸び悩むが、持ち前の俊足と強肩を活かし代走や守備要員としてチームに貢献した。
広島初優勝の1975年にはスーパーサブとしての役割を果たした。1981年オフに現役引退。
現在は、山梨県甲斐市でバッティングセンター「スタジアム31」を経営している。
甲子園から巨人へ「ドラフト2位指名」で入団した深沢修一氏は、
旦那の話では温泉つかりながら「昔、無理したんで関節が・・」と言ってたそうで、奧さんが遅番でバッティングセンターを見てくれてる際は、
温泉ケアに来ていますが、常連さんの話だと、奧さんはスゴイ美人だそうです!
「日本のお母さん」若き日の八千草薫
実家は旅館とのことで、お互い「温泉ケア」で湯につかりながら山梨の地元情報を色々と教えてもらい、「武川の48米は冷めても美味しいですよ」も深沢元選手から聞きました。
そういえば、被爆にイイという噂のストロンチウム温泉「尾白の湯」のことを聞いたら、
「孫が小さい頃はよく行きましたよ」とのことで、67歳にしてはかなり若々しいですが「お爺ちゃん」なんですネ。
「甲子園から巨人」という男の花道コースから、
入団早々、肩を故障して広島に行った深沢元選手には素敵なエピソードがあります。
広島へ移籍後、中々一軍出場ができず腐っていたが、当時の先輩に広島市の近くにある似島の戦災孤児収容センターに連れて行かれたことがきっかけで意欲を取り戻し、守備要員や代走で出場しても積極的なプレーをするようになったという逸話がある。
また、現役時代には地元の小学生を無料で試合に招待するというチャリティーサービスも行っていた。
人類の「意識レベル」の進化をキネシオロジーで調査したホーキンズ博士によると、
優れたアストリートは「人類全体の励み」になると共に、転落の罠に陥らない「教育」が必要とのことです。
スポーツの真のパワーは、優雅さ、繊細さ、心の静寂さによって特徴づけられます。そしてまた、激しい競争を繰り広げる選手ほど、逆説的ではありますが、優しさにあふれた競争のない生活を送っているようです。
私たちがチャンピオンを讃えるのは、より高い原理に自らを捧げ、個人的な野心に打ち勝ったことを彼らに認めるからです。自らが模範になって人々を教えるとき、その素晴らしさは伝説となります。
それは彼らが持っているものでもなく、やっていることでもありません。彼らが「何になったか」ということが、人類全体の励みとなるからです。
私たちは現実世界において、「賞讃の裏」にひそんでいる「フォース」の手から彼らの精神を守らなければなりません。このような選手の能力と、彼らの素晴らしいパフォーマンスは尊敬されるべきであり、メディアやビジネスの悪用から守られるように人間を教育する必要があります。
「清原は野球は天才でも、まったく教育されなかった」いう野村元監督の評がありましたが、
20号線沿いにある「スタジアム31」は、
アイスクリームとは全然関係なくて、背番号「31」が由来だったようで、大雪の際は親戚縁者総出で「雪かき」するそうです。
小保方さんにも若い頃の苦労を「糧」にして、自分の背番号を誇れるような人生を送ってほしいものですネ。
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