「大難を小難で済ます」という法則からすると、
6月18日夜に起きた東北震度6級の地震は「ガス抜き」になったのかもしれません。
「余震に注意」とのことですが、熊本での連続地震のようなことは、
「もう二度と起きて欲しくない・・」と注意が喚起されることで、起きない確率が高いと思われ、「意識」の影響は意外と大きいようで、最近は神社に行く人の中にも、「世界の安泰」を願う方が多い印象です。
さて、個人レベルの問題も「大難を小難で済ます」が適用出来まして・・
例えば、学生さんの頃から知ってるMちゃんなんですが、
先日、7月2日の「リアル酵素カフェ」の打ち合わせの際、
ちよっとした話の流れで「気づき」があったそうで、ナイスな展開になった・・というメールが来ました。
『〇〇ちゃんの話で「親からは逃れられない」と伺い、そーだなぁと思っていたところ….、この前話した、母にちょっと似た系統のバイトの上司と離れられることが決まりました!』
一方的に話しまくる、ヘザータイプの上司がいると言ってましたが、学びがあると、苦手な人が去って行くのはよくあることです。
〇〇ちゃんとは、Mちゃんも知ってる私の旧友で、お互いの了解のもと今は連絡し合ってませんが、一緒にペルーの先生のところに通ってた二十年来の友人です。
若い頃から東京で一人暮らしだった〇〇ちゃんは40歳の頃に立て続けに旦那さんと母親を亡くし、
幼稚園児を抱え、途方に暮れていたところをペルーの先生に紹介したのですが、彼女は間違いなくワンダラーさんだと思います。
で、〇〇ちゃんもそうでしたが、Mちゃんも結婚して親になってから、自分の親との関係が浮上したとのことで、
非常にしっかりとしたオーラの持ち主であるMちゃんなんですが、
知り合いの精神科医から、「フツー、そんな境遇で育ったら、精神を病むよ・・」と言われたそうで、
「毒親」系の本もたくさん読んだそうです。
スーザン・フォワードは「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。「毒親」に関する議論は、親の「自己愛」問題が主な共通点であり、自己愛的な親について語られることが多い。主に母親が対象として取り上げられる。
「毒親」って言葉、先日、カナダからの読者さんのメールでも目にしましたが、
よーするに「自分の全てを受け入れてない」から「他者(子ども)の全ても受け入れられない」状態であり、
地球人類のほとんどが、程度はそれぞれでも「毒」はアルと言えます。
で、先ほど電話のついでにペルーラムさんに「毒親」について聞いてみたら、
「そんな用語知らない・・」とのことで、
毎日、大地で汗だくで働いてると、「毒親」どころじゃなくなるようです。
そういった意味では、男性と女性のスルーの仕方はやや異なるようですが、
逃げないで「受け入れること」がキーポイントであるのは同じで、
俳優でパパでもある堤真一さんの体験談は参考になります。
2019.06.18
俳優の堤真一が『サワコの朝』6月15日放送回に出演し、父親との思い出を明かした。
甲子園球場のある、兵庫県西宮市で育った堤。子供のときから野球をやっていたが、次第に面白くなくなり、高校1年の9月1日に、野球部を退部。ほかに目標もやりたいこともなかった堤は、不登校になってしまう。
「不良グループに入ったわけではなく、ただ学校に行かずに寝ていました。今でいう引きこもりですね」
ずっと家にいた堤だが、両親に怒られることはなかった。
「父は熊本の出身なんですけど、めちゃめちゃ無口な人だった。子供のころ、団地の3階の部屋から会社に行く親父に『いってらっしゃ~い!』って言うと、振り向きもせずに、手をスッと挙げるだけ。
両親は真逆なんですよ。親父は一緒に生活していても、声を聞くことがほとんどないぐらい。お袋はずっと喋っている。『よく結婚したな』と思って(笑)」
そんな堤は、父に反抗的な態度をとることが多かった。高校をやめることを告げたときは、父から理由を問われ、思わず暴言を浴びせてしまった。
「『あんたみたいなサラリーマンになりたくないんじゃ。毎日同じ時間に出ていくなんてしたくない』と偉そうに言ってしまって。
でもそのときに、無口な親父が『サラリーマンの苦しみがわからないやつは、なにをやっても一緒や』って、ボソッと言ったんですよ。『負けたぁ……』と思いましたね」
それから、また学校に行くようになった堤。高校3年のときには、ほぼ毎日学校に通うまでに。それから数年で、父との別れの日がやってくる。
「僕が19歳のとき、父が末期のガンになって。僕は、養成所に1年通っていて、合格して、東京に行かなくてはならなかったんです。うちの親父は最初、『余命1カ月』と言われていたんですが、その時点で9~10カ月くらい生きていたんですよ。でも、父と僕は、ちゃんと話ができない関係でした」
堤は、東京に行く前日、父の病室を訪れた。
「親父を笑わそうといろんな話をしているんですけど、ブスーっとして聞いているだけなんですよ。そしたら、『お前、車か。コインパーキングに止めてんのか? あれは1時間しかダメだから、早く行きなさい』と。まだ面会に来て10分くらいなんですよ。
でも、話すこともないし、『僕はもう行きます。東京に行きますんで』と言って部屋を出た。僕も親父も、お互いに敬語でしたね。親父は、くだけたものの言い方ができない、冗談も言えないタイプで」
堤が病室を出る間際、自分の死を悟っていた父が、息子に別れの言葉を投げかけた。
「『元気でな』って言われたんですよ。もう振り返れなくて、だからその顔も見てない。で、廊下に出て、友達も待ってくれていたんだけど、僕はもう泣き崩れちゃって。『もう会えない』と思ったから」
堤の心の奥底には、父への愛が大事にしまわれていた。30~40代の、役者として一番苦しかった時期に、「親父ってなんだったんだろう」と反発した過去を回顧したという。
「『どこが嫌いだったんだろう……あれ、なかったぞ。俺大好きだったな、子供のときから』と思って。小学2年生のときに、親父に栄転の話があったんですけど、僕が『友達変わるのイヤだ』と言ったら、断ってくれていたんですよね。
でも、じつは僕の中ではちょっと『転校もいいかな』って思ってて、クラスで『俺、引っ越しするかも』と言っていい気になっていたので、『行けへんのかいや、言うてしまったがな』っていう(笑)。その辞退のせいか、けっきょく親父は55歳まで、万年平社員でした」
いまは、前向きな父への思いを、はっきり自覚できるようになった。いまでは堤も父親となった。子供たちと一緒に入浴すれば、かつて父が自分に見せてくれていた、手の水鉄砲を披露しているという。その水しぶきはきっと、天国にも届いているに違いない。
「親が嫌い!」という感情は誰にでも生じるもので、
「毒」の程度はさまざまでも、親を求める子どもの気持ちは普遍的ですので、
平凡なサラリーマンだった父親に対して、
『どこが嫌いだったんだろう……あれ、なかったぞ。俺大好きだったな、子供のときから』
って気づいた時が「自立」であり、
多くの親子関係に投影されている、「支配と被支配」の3次元ゲームの終焉ですネ!
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