酵素カフェ

覚醒者が語る悟りの段階的なフィールド

ちょっと前まで暖かったのに、急激に寒くなった日本ですが、ヨーロッパではかなり世紀末的な凄いことになってるようで、

kottes-01オーストリア・コッテス 12月3日

暖かいのか寒いのだか・・・
2014-fall-snow

平均気温としては暖かいのだけど、雪が降る範囲が史上最高ということになってます。

いずれにせよ、地球規模でどんどん気候がおかしくなっているのは確かですが、

実は、こんな時代こそ「悟り」のチャンスであり、

以下、ディヴィッド・R・ホーキンズ著 <わたし>真実と主観性からの抜粋です。

悟りの段階的なフィールド

レベルによって視点が変わっていくと、”わたし”の感覚や定義も変わっていきます。”わたし”は焦点や心(マインド)のコンテントではなく、不変の経験者/目撃者/観察者であることに気づくことが、最も手っ取り早い変容の方法です。人生の物語が変わっても、絶えずそれを観察し、そこからわずかに離れたレベルで同時に経験している意識の側面があります。”わたし”の感覚も、コンテントからコンテクストへと移行していきます。

最初の段階を要約すると、心(マインド)はまず、思考やイメージ、概念などの形として現れた興味の対象に気づきます。これらは登録されると、記憶や感情反応のフィールドを刺激します。

記憶は、いわゆるメモリーバンクの中の、過去に抱いた感情や判断ーよい/悪い、快楽/苦痛、よい/ダメーによって分類されたファイルに収められています。そこに登録されることによって、付随する感情が刺激され、見る人/経験する人のレベルでそれらが経験されます。

このように観察することによって、”わたし”という感覚は、単に”経験”するために、自動的に機能している非個人的な特質であることがわかります。自らのアイデンティティを、この内なる経験者に移すことによって、人生のコンテントがどんなものであっても、それが自動的に機能しているにすぎないことが発見できるのです。

次の段階では(とても易しいものです)、経験の源は気づきと呼ばれるフィールドであり、経験に先立つもの(ア・プリオリ)であることを認識します。

気づきがなくなると(眠りについた場合、あるいは、麻酔状態や昏睡状態に陥った場合など)、その下のフィールドはどれも機能しなくなります。見る人/経験する人の意識がなければ、空白と健忘、忘却が残るだけです。

次の段階はさらに精妙で、そこでは観察者/目撃者が気づきがあるかないかを認識します。気づきのレベルでは、考えることが、観察者/目撃者の意識の非個人的な機能としての知ることに置き換えられます。こうした機能は、個人的な自己ではなく、それ自体の本質の自然な働きとして発生します。

次の段階はさらに精妙です。いついかなるときでも、気づきを存在せしめる全体的なフィールドが存在します。それが「意識の光」です。

最後にしてあらゆる段階の中で最も精妙なのは、究極の「意識の源」として顕現する「自己」です。「自己」は、「神性」の顕在としてその本質を明らかにし、最終的に無限のコンテクスト、すなわち、無限の潜勢力、パワーである「至福の神」ー「非顕在」ー、名もなき者、無限、至上、究極の「源」の輝きを放ちます。「創造」の源が、「創造主」として顕在する神であることは紛れもなく、そこから「生命の源」としての「意識の光」が発生するのです。

<わたし>の感覚は、自らがそうであることを知っている「内なる臨在」の特性であり、それゆえに<わたし>が「自己」であると認識することを可能にします。どんな巧妙な見せかけ、偽りがあろうとも、<わたし>という内なる感覚は、何のコンテントを持たずともただそれ自身を知っているのです。

「ワンネス」の状態では、「臨在」と「自己」の間に分離はないので、光が闇を照らすと同時に、自己(自我)は消滅するほかありません。<わたし>とは、その「源」の核心において、万物とまったくひとつなのです。

真理は、内側から絶対的な確信として明かされます。というのも、確信は「臨在」の特性だからです。真理は、完全に知っている状態の紛れもない源、確信なので、完全に主観的です。また、「真実」は「存在するものすべて」であり、それ以外に知るべきものは何も残されていないので、コンテントは空っぽです。したがって、完全に静寂で、イメージも言葉も概念も不在です。

真理が完全であれば、それは純然たる主観性の極地であり、あらゆる精神機能を消し去ります。神の栄光という「無限の光」の中では、いかなる概念も存在することができません。そこには、深遠な安らぎと安堵、家に帰ったような感覚があるだけです。

もはや完成したのです。波紋を起こす一切は、「臨在」の本質である無限の優しさの中に溶解していきます。すべての「創造物」が発生する無限のコンテクストにとって、宇宙の多様性は、風に巻かれた一片のほこりのようにはなない、消え行く思考のひとつにすぎません。完結した「完璧さ」と「美」が、存在の無限の源である、偏在する「神性」から輝き出します。

歴史や時間は、自我の産物です。「究極」の領域において、記録するべきものは何もありません。

Q:今の解説は非常に深遠なものでした。また、この情報のレベルを測定してみると999.9という結果がでました。けれども、この情報によって疑問が生じてきました。「究極」が時間と形を超えているならば、どうしてカルマが記録されており、それをキネシオロジーテストによって追跡することができるのでしょうか?

A:「顕在」の最高レベルとは、「意識」です。そして、意識は無形でありながら形を登録することができます。しかし、意識は本物で実在するものだけど登録することができます。したがって、虚偽は本物ではなく、非実在なので、登録することができません。キネシオロジーテストは真理のみを認識し、それに反応します。実在しなかったり、起っていなかったりする場合は、反応しないのです。

したがって、”未来”を予測することはできません。キネシオロジーテストは、「イエス/ノー」形式のテストではありません。「イエス」だけのテストです。というのも、キネシオロジーテストは真実でないものに対しては、無反応だからです。

日常生活では、反応のないものは「ノー」としますが、実を言えば、単に「イエス」が不在なのです。

意識は、生来無形でありながらも、形を包括するエネルギーフィールドとして存在しています。生命は意識からパワーをもらうことができ、実際に活力を与えられています。どの程度パワーを得られるかは、光の強度のように位置によって異なります。たとえば、太陽に近づくほど、光とエネルギーの度合いが増すのと同じことです。

霊的な浄化とは、光を遮断する障害物が取り除かれ、「自己」との合一があらわになるということです。したがって、光と闇のたとえ話は適切です。人類は直観的にその意味を理解していました。覚醒とは、存在の源が明らかにされるということですーどこか別の場所や時間に探し求めていた「光」は、まさに今ここで光り輝いているのです。

Q:覚醒を真剣に目指している探求者に何かアドバイスはありませんか?

A:霊的なコミットメントとは、あなたの人生の意味と目的を再構築することを意味しています。この言葉は、人生を日常生活と霊的な修行とに分けてしまわないように、すべてを含んだ全体性を見て進めなければなりません。

人生のあらゆる出来事は、霊的な実践の機会となります。というのも、コンテクストが優勢となり、コンテクストは活動や思考、時のすべてを包含しているからです。このような安定した視点を持つことで、すでにいくらかの無執着を実現することになります。

この視点を実践するうえでの要点は、人生で起ってくるあらゆるコンテントに対し、いかなるコメントも批判も価値判断も持たずに、ただ眺めることです。その一貫した姿勢を言葉にするなら、「〜はそのように見えている」です。観察者/目撃者は、人生に対してコメントしたい欲求がなくなり、それによって解釈、好き/嫌い、魅了/嫌悪、反論、意義などを超越することができます。

人生はおのずと展開し、そこにコメントは必要ありません。目撃したことにいちち編集を加える習慣は、自発的に神に明け渡さなければなりません。

無執着もひとつの考えのように見えますが、それは立ち位置ではなく、非ー立ち位置です。層状になった気づきのレベルのチャートを見ればわかるように、観察者/目撃者はすでに通常の自我の拘束から一歩脱出した段階です。コメントせずにただ観察することを実践することによって、心(マインド)は静かになり、人生で起ってくるすべてに”わたし”を投影する自我の習慣を段階的に捨て去ることができます。それが達成させると、人生は個人的なものではなく、非個人的なものであることがわかります。

また、この実践によって、通常の心ががんじがらめになっている、人生の細かな出来事に巻き込まれなくなっていきます。平安とは、気づいていながらも関与せず、”わたし”の感覚がコンテントから体験者へ、体験者から観察者/目撃者へと推移することのよってもたらされます。

Q:それは無関心につながりませんか?

A:確かに、わたしたちが”神性の無関心”と呼ぶものにつながります。平和な心には、思考も意見もありません。”知っている状態が考えることに置き換えられるので、人生の必要条件を満たすためのコメントはいらず、必要だと信じられているもの(思考)は、無用であることがわかります。精神活動は、夕焼けや甘美な旋律の圧倒的な美を、損なってしまうのです。

内なる静寂が浸透するには、すべてのことがおのずと起こり、何かが何かの原因となることは決してないということを理解し始めることが入り口となります。起承転結の構造は、精神の遊びにすぎないことを認識しなければなりません。

Q:精神活動が停止すると、わたしたちは喪失感や違和感を覚えるのではないでしょうか?

A:逆にわたしたちは、やっと”見つけた”、家に帰った、というような感覚を覚えます。というのも、心(マインド)は、人生の表面を生きているにすぎないからです。心がおしゃべりをやめると、わたしたちはわたしたちが人生そのものであることに気づきます。人生の表面にとどまり、おしゃべりをする代わりに、人生そのものに没頭するのです。矛盾するようですが、こうなってはじめて、完全に人生に参加することができるのです。自我の自己中心性がなくなることによって、自由の喜びと自然な人生の流れに後押しされ、わたしたちは完全に身を委ねることができるようになります。すると人生に反応することがなくなり、人生を穏やかに楽しめるようになります。

Q:けれどもわたしたちには、たとえば不正に抗議するなど、人生で果たすべきものがあるのではありませんか?

A:求道者の心(マインド)は誘惑を回避し、拒否しなければなりません。後に、失われたものは何もなく、誘惑もまた別の幻想であることに気がつくでしょう。求道者は、解釈を添えようとする虚栄心や、世界を救わなければという義務感でさえもあきらめなければなりません。あなたの内なる霊的な成長こそが、いかなる形の行為よりも、社会に偉大な価値をもたらします。あなたの到達した慈愛が放射され、静かに人類の叡智に貢献するのです。

非線形領域について・・

img022

ホーキンズ博士について

意識のマップについて

イスラム国とコーランの関係

ハリーポッターの仕掛けとネガティブなアトラクター

ソルフェジオ周波数のジョン・レノンの曲と二人のデヴィッド

覚醒した精神科医の歴史的概要①

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で







COMMENTS & TRACKBACKS

  • Comments ( 2 )
  • Trackbacks ( 0 )
  1. >「悟り」というか、意識レベルを上げていくことが大切な時代になっているような気がします

    サトルミューテーションですネ!(・∀・)/

    ユキちゃんがDVDをくれたので、前から見たかった悪夢ちゃんザ夢ービーを観れました。
    得てして続編はつまらなくなるのが普通っぽいですけど、これはなかなか面白かったです。
    半年後の設定でしたけど、悪夢ちゃんは思春期をむかえてかなりデッカクなってましたヨ。(・・;)

    ところで蘭ちゃんは「歩け歩け~道がある~♪ふ~ふ~♪」「ワンパクでもいい!たくましく育ってほしい!」っていうハムのCMを知っていますか?それとクレちゃんはTV画面とかをみるのが好きで、動く映像に手を出したりしますか?あと日本の昔話にくわしいYネーサンは大和だましギツネの話は知っていますか?それはトラトラに関係がありそうですか?

    • 悪夢ちゃんは思春期って興味ありますね〜

      <「歩け歩け~道がある~♪ふ~ふ~♪」「ワンパクでもいい!たくましく育ってほしい!」っていうハムのCMを知っていますか?>

      「ワンパクでもいい!たくましく育ってほしい!」は、知ってますよ〜

      <クレちゃんはTV画面とかをみるのが好きで、動く映像に手を出したりしますか?>

      子猫の頃はやったかもしれないけど、あまり記憶にないなあ。今は年だし我が家にはテレビないのでやってません。

      <あと日本の昔話にくわしいYネーサンは大和だましギツネの話は知っていますか?それはトラトラに関係がありそうですか?>

      ???会ったら一応聞いてみます・・

LEAVE A REPLY TO 27 CANCEL REPLY

*
*
* (公開されません)

COMMENT ON FACEBOOK