酵素カフェ

OSHOの「エゴの起源」と抗ガンも蹴散らす石屋さんパワー

何事も、共時的なタイミングってあるようで、

11月9日の朝、旦那さんが韮崎に出かけようとしたら、お待ちかねの石屋さんから電話が来て「今日、何時になるか分からないけど砕石を持って行くから・・」とのことで、

そういばこの夏、久々にひょっこり石屋さんが現れた時も旦那さんは(韮崎の用事で)留守でした。

「丸くなった」石屋さんと宇宙人による「69」「96」に関する操作

で、お昼ご飯の後、ピノちゃんと散歩に出たら、

アララ・・知らないうちに石屋さん来ていたようで、庭先に砕石が積んでありました。

その後、伐採木を積んだ旦那さん戻って来たタイミングで石屋さんから再び電話があり、

「明日は花崗岩を運ぶ・・」とのことで、支払いの件とか話してましたが、その際「身体、大丈夫なんですか?」と聞いたら、「オイオイ、まだ生かしてくれよ」とのことで、声にも力があったそうです。

先週、紅葉たけなわの南相木村に行った際に石屋さんに寄ったら留守だったので、

その場で電話したら「検査入院中」とのことで、やや心配してましたが、立岩と立岩湖のある南相木村にお住まいの石屋さん、マジに不死身なようで、

今、大宮の氷川神社のお仕事もしているそうで、氷川神社は2021年「夏越の大祓」した神社です。

2021年「夏越の大祓」と「 日本政府がワクチンパスポート導入 締切7/1」

11月10日の朝は、久しぶりにピノちゃんと草原まで行き、

10時頃には、石屋さんが大きな「花崗岩」と佐久の「ころべえ米」を持って来て、

いろいろ面白い話をしてくれましたが、半年前より明らかに元気な復活基調で、ピノちゃんもすっかりリラックスして懐いてました。

自然療法でステージ4のガンから復活ってよく聞きますが、医者も抗ガン剤を使ってこんなに丈夫な人って「見たことない」とのことで、髪の毛もフサフサあり、どんな療法でも、結局は「本人次第」なんだな〜 と改めて感心しました。

故ペルーの先生いわく「病気になったことを感謝出来る人は治るよ」とのことですが、まさにその通りな感じで、ガン治療で酒もタバコも止めたけど、双葉で競輪を始めたら(昔は府中競馬に億のお金を費やしていたらしい)、いきなり3万が50万になり、その後も競輪の上がりで、何百万かの病院費用の帳尻を合わせることが出来たそうです。

この石屋さんと初対面の時、衝撃的だったのは、今はチョンガーだけども4度も結婚していて、お孫さんは一番上は20代で一番下はまだ1歳とのことで、子どもや孫達から慕われてます。

今日も開口一番「二人でずっと居て、よく飽きないな〜」と冗談言われ、石屋さんの結婚生活は「4回とも全力投球だったから、忘れるのも早い」とか言ってましたが、離婚はすご〜くエネルギーを使いますから、並外れた精神力・キャパシティがなければムリで、

今回お話していて、優しくて、愛情たっぷりの方だからこそ「4度も結婚」しちゃったんだな〜と感じましたが、「自然には叶わない」と言っていたのも印象的で、

石屋さんを見送った後、家に入ったら、ちょうど11:22のピノちゃん誕生日で、こういうのも共時性の一種ですネ。

セルフビルドしてきた旦那さんいわく、石工作業は一番大変・・とのことで、木工仕事の比ではないそうです。

石屋さんはしっかりとした「自分を持っている」方で、そうでないと石に負けちゃうようですが、

エゴと「自分を持っている」は別物で、OSHOさんいわく、エゴの起源は、人間の無力さをカバーする「保護役の殻」であり、愛のみがエゴを屈服させ、そして愛なしで「祈り」はないと言います。

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動物や樹木、鳥には問題というものは存在しない。全く問題なしの生命を生きる。・・動物にしても草木にしても鳥にしても、その子どもたちは親がなくても生きていける。社会がなくても生きていける。家族がなくても生き残れる。たとえときに助けが必要なことがあっても、それはほんのわずかなものだ。二、三日とか、長くても二、三ヶ月のことだ。

ところが人間の無力さは長くつづく。何年も何年も他者に頼らなけれなければならない。そして、そのことに問題の根を探し出す必要がある。

では、なぜ無力さが人間の問題をつくり出すのであろう?
子どもは無力だ。他者に頼っている。しかし、子どもの無知なマインドは、この他者に頼るということを、まるで自分が世界の中心であるかのように解釈する。・・

エゴが生まれたのだ。エゴは頼ることと無力さを通じて生まれてくる
実際の状況はまさに反対で、エゴを生み出す理由など全くない。ところが子どもは完全に無知な存在だ。まだ物事の複雑さや微妙さを理解できない。自分が無力であるとは感じられないで、独裁者だと感じている。そしてこの頃から一生死ぬまで、人は独裁者でありつづけようとする。・・

あなたの周りには、あなたのエゴとまったく同じようなエゴが何百、何千万といる。誰もが策をこらして他人を支配し、コントロールしようとする。そのためには金の力や権力、政治力を使い、知識や腕力、ウソや演技や偽善、ときには宗教や道徳まで使う。あらゆる人が「自分こそ中心」であることを全世界に示そうとするが、これこそ、全ての問題の根っこなのだ!

自分が中心だという考え方があるからこそ、あなたはいつも誰かと争ったりもめたりしている。相手があなたの敵であるわけではない。ただ誰も彼もみんな、まさにあなたのような存在だ。同じ船に乗っている。あなたの陥っている状態は、ほかの誰もが陥っている状態と同じだ。みんな同じように育てられてきたのだから。

西洋の精神分析の一派で、子どもが両親に育てられる限り世界はけっして平和にはならないから、子どもは親なしで育てられるのがいいという提案をしている人たちがいる。私はこれには賛成しない。

なぜなら、そうなったら子どもはどんな風であろうが、けっして育たないからだ。この提案のなかには確かに真実をつくものがある。だが提案としては非常に危険だ。というのは、もし子どもが母親も父親もなしで看護院的な所で育てられたとしたら、愛のない全く無関心のなかで育てられたとしたら、エゴの問題はなくなるかもしれないが、別の違う問題をもつようになり、それはエゴの問題と同じように、いやそれ以上に危険な問題になるかもしれないからだ。

無関心のなかで育てられた子どもは、内側に自分の中心(センター)となるものをもたない。自分が誰であるか知ることなく、色んなものが入った雑炊のような、ぎこちない存在になる。アイデンティティーを全くもてず、不安がり、怖がってばかりいて、どんなことにも怖れを感じずには一歩も進めない。誰からも愛されたことがないからだ。

もちろんエゴは存在しないだろう。しかしエゴがないというのは自分の中心もないということになる。その子は賢者になることはない。ただ鈍重で劣った存在として、愚かでいつも怖がってばかりいる一生を過ごす。

人が怖れを感じないようになるには愛が必要だ。

自分は受け容れられている、誰かが愛してくれている、自分はけっして無用な人間ではない。けっしてゴミ捨て場に捨てられるような存在ではない。
もし、子どもが愛の欠けた状況で育てられるとしたら、確かにエゴはもたなくなる。それはその通りだ。その人生もまたそれほど葛藤に巻き込まれないだろう。だがそれは、闘うこと自体が全然できなくなっているからだ。常に逃げ腰で誰からも逃げまわり、自分のなかのほら穴に隠れこんでいる。

こういう人たちは覚者(ブッダ)になることはない。活気あふれた力に輝くこともないし、自分の中心がゆったりと落ち着いてくつろぐこともない。中心から外れてしまった変わりもので終わっていく。こういう状況は良いものだとはけっして言えない。

だから私はその精神分析医たちを支持しない。彼らは人間ではなく、ロボットを作り出してしまう。ロボットはもちろん問題などない。・・

全く完全である意識をもつとは、小鳥のように生命を祝福し、小鳥のように唄うことだ。だが、決して退化してそうなるのではない。逆に、意識の最高の状態へ成長していってこそそうなる。

子どもがエゴを集めていく、これは自然なことだ。それに関してどうこうできることは何もない。私はむしろそれを受け容れる。ただ後々になってもそのエゴを引きずっていく必要はない!

そのエゴは子どもがその生の初めに、自分が受け容れられている、愛されている、歓迎されていると感じるのに必要なものだ。父親や母親、周囲の暖かい雰囲気、それらが子どもを強く、地に根を張ったどっしりとした人間に成長するのを助ける。

だからエゴは必要だ。そこではエゴが一つの保護になっている。それは種を覆う外殻のようなもので、良いものだ。
だが、外殻が究極的なものになってはならない。そんなことになったら種が死んでしまう。保護も過ぎると毒になる。保護はあくまで保護であるべきだ。この外殻の場合も、種の殻として、大地に帰るときがきたら、あるがままに自然に死ぬがいい。殻が去れば種は発芽できる。また生命が生まれる。

エゴとはまさにこの保護役の殻だ。子どもは無力だからそれを必要とし、弱いからこそそれを必要とする。傷つきやすく壊れやすいのに、周囲にはあらゆる種類の圧力がある。だから、子どもにはやはり保護が、家が、基地が、必要になる。たとえ外側の世界全体が無関心であっても、子どもはいつでも家をあてにすることができる。家を基地にして子どもは自分の存在意義を集めることができる。

しかしこの存在意義といっしょにエゴがやってくる。子どもはエゴイスティックになっていく。そしてこのエゴとともにいろんな問題が起こってくる。数えきれないほどたくさんの問題だ。このエゴは、あなたが恋に落ちることをゆるさない。そしてあなたの人生には何百万の問題が生じる。
このエゴは、他者が皆あなたに降伏すればいいと思う。他方このエゴは、あなたの方が誰かに降伏するのは認めない。

しかし恋(愛)は、あなたが誰かに降伏するときにしか起こらない。あなたが誰かを強制的に自分に降伏させるなら、そこにあるのは憎悪と破壊だけだ。愛はない。
そして愛がないとしたら、あなたの人生は暖かみのない、詩情の全くないものになる。その生は単調な散文のようなだ。数学的で合理的、論理的に整頓されているかもしれない。でも詩のない人生をどうやって生きていける?

散文が悪いというわけではない。実際的だし必要なものだ。だがそれだけでは生命とはなりえない。なぜならそれはけっして祝典にはなりえないから、祭典になりえないからだ。生きることが祝宴でなかったら、その生は退屈そのものでしかない。

詩が必要だ。だが詩が生まれるためには、あなたは降伏して全てを委ねることが必要になる。このエゴを投げ出すことが。
もしあなたにそれができたら、たとえほんの一瞬の間でもエゴを脇に置きやることができたら、あなたの生命は美しさの極致、神性を、一瞥することができるだろう。
詩なくしては、人は真に生きることはできない。ただ存在するだけだ。

愛は詩だ。
そして、もし愛がなかったら、どうやって祈るということができよう?
祈りのない生にあっては、あなたはただ肉体だけの存在で終る。あなたの内奥に秘められた魂(ソウル)にけっして気づくことがない。
祈りなかで初めて、人は頂点に辿りつくことができる。祈りとは、経験の最高峰だ。そして愛がその扉を開く。祈りは、あなたを生命の最も奥深い神秘のなかに連れていく。

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つまりエゴの強い人は、自分は無力だと感じている「お子ちゃま」であり、

「愛は詩だ」とありますが、人は死を覚悟するような大病をすると、家族などの周囲との関係含めて「愛」を再確認する場合が多いようで、

う〜〜ん、「エゴを投げ出す」大恋愛で結婚した夫婦でも、時間の経過と共にワンワン、ニャンニャン「11:22=イイ夫婦』ではなく、エゴとエゴの戦いになるパターンってよくあり(ウチもです・笑)、エゴが強いと、逆に石に負けちゃうのかな〜(自然には叶わない)って推測され、

4度も結婚した石屋さん、一時的ではあっても4回も「エゴが降伏する」体験をしたわけで、その「祈り」パワーは絶大なのかもしれませんね〜

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