デジタルなネット時代となっても、アナログモードならではの「出逢い」ほど楽しいものはなく、
昨年暮れ、毘沙門天(ラーメン屋)帰りの「出逢い」で、今年からウチの子になったベンガル・ピノちゃんは、
2021年5月11日、すっかりリラックスモードで、
ガブ猫じゃなくなったのは、ここが自分の居場所だと、心から落ち着いたのでしょうね。
おかげさまで毎日楽しく、ピノちゃんが来てくれて良かったな〜 としみじみです。
そんなピノちゃんを置いて、5月7日、1泊旅行に出かけた次第ですが、
山田温泉に着く前に寄ったのが、栗で有名な「小布施」で、
13年前の秋、戸隠神社の帰りに寄ったら、どこの店も「行列」してるのでスルーしちゃいましたので「リベンジ栗」で、ネット上で一番話題の「小布施堂」に行ってみました。
趣ある本店の奥に入ると、
タイムスリップしたような中庭の空間になっていて、
「モンブラン朱雀」がいただける、
「えんとつ」というカフェがあり、今の時期でも整理券を出すほど人気なようです・・
秋・新栗シーズンは明け方から並ぶ方々もいるとのことで、飲み物付き1600円って「えっ!」って感じですが、
その大きさたるや、で、でかい・・
写真じゃわかりにくいですが、
どのくらい大きいかと言うと、
申し分なく美味しいのですが、
生涯初、ケーキを食べきれずに、リタイアしちゃいました〜
朝は食べずに八王子を出たのですが、途中のサービスエリアで大きな「みたらし団子」を食べちゃったのが敗因です。
しかしまあ、どちらにしても1個はムリな量なんですが、店内は満席で、
外に出たら、並んでる方々もいて、ウチは通常「並ばない」ので、
並んでたらパスしたかと思われますが、まあ、一度は体験してもイイかもの大きなモンブランでお昼代わりにした後、
同じ敷地内にある「高井鴻山記念館」に寄ってみました。
裏と表に受付がある、たいへん立派な記念館で、
「酒造業で富を築き上げた」高井鴻山の祖父が残した家に、
兄弟が次々と亡くなり、跡取りとなった四男の高井鴻山は、葛飾北斎や佐久間象山、小林一茶らを招いて交流します。
特に葛飾北斎は一年余りも逗留し、83歳の北斎と37歳の鴻山は師弟関係になりますが、
今では世界的に有名な北斎って、超ド級の奇人だったようです。
北斎は墨田(現在の両国)に生まれ、生涯に引っ越すこと93回。というのも、絵を描くことばかりの日々を過ごすこの絵師は、自炊などするわけもなく、惣菜や饅頭(北斎は大の甘党!)を買い込んでは包み紙やらゴミをポイッと傍に捨て置く。当然、部屋は汚れ散らかる一方で、「うむ、臭いな」と我慢できなくなると新居を探し始めるんです。
一方、鴻山は儒学者で「陽明学の教え「知行合一」の精神で“国利民福”の信条を貫いた」とのことで、
しかし、北斎と出会ってから、火事だの幕府の貸し倒れだの・・かなりの災難続きだったようです。
その後、文久元年(1861年)には江戸でつくった妾ふじ(20歳)が小布施まで来てしまい、家の中も乱れてしまう。そんな中、妻かずが元治元年(1864年)1月、55歳で没する。その2年後の慶応2年(1866年)には、幕府からの援助要請のままに幕府へ一万両の献金を約束するも、7年延払となる。この年7月、山田温泉へ向かう途中奇禍に遭遇する。翌慶応3年(1867年)には十五代将軍徳川慶喜による大政奉還が行われたことにより、献金の約束も意味を失い、鴻山には借金のみが残ることとなる。さらにこの年、既に文久元年(1861年)に分家していた弟の太三郎も死去してしまう。
明治4年(1871年)になると鴻山は、高井家を息子の辰二に譲り、後妻・ふじ、次男・孝太郎、三男・辰二、兼次郎と別居、その年の秋文部省に出仕となった。翌明治5年(1872年)に67歳で東京府に出仕、私塾の高井学校を開いている。しかし三年後の明治8年(1875年)、遂に家は破産し、明治10年(1877年)秋に高井学校も閉鎖、さらにその翌年、明治11年(1878年)の3月には、小布施の邸宅が大火に遭ってしまう。それでもその翌年の明治12年(1879年)、長野町の旭町に高矣(たかい)義塾を開校する。この頃明治11年(1878年)から明治15年(1882年)にかけて、生活のために村々の神社旗幟を25体、揮毫している。明治13年(1880年)になって軽い中風を患い、徐々に病状は悪化していき、そのまま明治16年(1883年)78歳で死去した。墓所は小布施の祥雲寺にある。法名は耕文院泰賢鴻巣山居士。
絵画については花鳥画や山水画、人物画を得意としていたが、鴻山の作品として特筆すべきは、晩年の北斎の影響が大きい妖怪画の数々である。但し金銭面は弟に任せきりで、金儲けの丁稚仕事には手を出さず、事業家としては無能であり、京や江戸では勉学の傍ら、花柳界で金持ちよ御曹司よと乱痴気騒ぎをし、自ら「放蕩宗」と称して多くの友人を作っていった。
1924年(大正13年)に従五位を遺贈された。
とわいえ、奇行の天才、葛飾北斎との交流は、
タダの坊ちゃんだと自分を思っていた鴻山にとって、珠玉の交流だったと思われ、
いつの時代も、人々が欲するものは損得勘定の掛け値ない、真の「絆」であり、
鴻山と北斎の「出逢い」があったからこそ、ゴッホなどにも影響を与えた数々の名作が生まれたのでしょうね〜
それにしても、37歳で自死したゴッホに対して、
93度も転居した北斎が90歳まで飄々と生きてこれたのは、周囲からの助けがあったからで、
江戸時代って、金持ちも庶民もなく、楽しめる受け皿があったようで、
小布施の町には、そんな江戸時代の面影が濃厚に残っています。
というわけで、目指して行ったわけではないけど、ネットで話題のモンブラン流れで知った、
高井鴻山は、視えないレベルでもエネルギー的に北斎を助けていたと思われ、
小布施町が今現在、小さいけど豊かな町であるのは、そんな先人をちゃんと敬ってるからだと思いました!
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