春の雪はスグに溶けてしまいうことが多いですが、
3月22日、清里高原に降り注いだ雪は、
翌日の23日にもしっかり残っていて、
朝11時頃に車に乗ったら、表示された外気温はー5度、
しかしながら、高原大橋を越えたら雪ナッシングで、どんどん外気温が上昇し、
昼過ぎにペルーラムさんの南部町に着いたら、外気温12度もあり、
玄関先には、こんな大きな柑橘類が!
同じ山梨県でもほとんど長野の清里と、
ほとんど静岡の南部町では別世界ですが、
「お互い」わりと頻繁に行き来してまして、
「お彼岸」でもあるし、ペルーの先生&奥様に御線香をあげて、
先生夫妻ともよく食べた、簡単オヤツで午後のティータイムを楽しみました〜
昨日はお彼岸6日目で「禅定(心鎮める)」とのことですが、
1日目お布施(人に善行を行う)
2日目持戒(天意に沿っている生き方の確認)
3日目耐え忍ぶ(愛と忍耐を学ぶ)
4日目中日(休息・内観)
5日目精進(霊性進化のための実践)
6日目禅定(心鎮める)
7日目智慧(ありのままの真実を見つめる)
孤独に瞑想三昧より、リアルに人と会って、いろいろ「話す=放す」方が、心が「鎮まる」場合もあります。
コロナが終わりそうになったら、今度はウクライナ問題と、落ち着かない世相ではありますが、こんな時こそ、分離に向かって「心をかき乱さない」ことが大切で、
Y姉さんいわく「晩年のペルーの先生に似てるわよ〜」な、心理学者のケネス・ワプニック氏は、
真のエネルギーは「分離を強化」しない という、重要なポイントを語ってます。
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覚えておきべきことは、警戒すべき主要な問題は分離を強化するあらゆるものである、ということです。だからこそ、このコースの癒しについての見解は、他の道が「癒し」と呼ぶものと非常に異なっていると言えるのです。
『奇跡講座』が説く「真の癒し」というのは、特定の祈りを唱えたり、按手をおこなったり、誰かにエネルギーを送ったり、その他それに類する何かから生じるものではありません。もしそうだったとしたら、あなたは肉体にまつわる何かを実在するものと見なしていることになり、あなたは他人が持っていない何らかの才能があると言っていることになります。それは癒しではありません。だからといって、そうしたやり方が役に立たないとか、使ってはいけないという意味ではありません。ただ、そうしたものを「癒し」と呼ぶべきではない、と言っているだけです。なぜなら、そうするならあなたは分離を強化することになるからです。非常に微妙なやり方で、あなたは肉体を実在のものと見なしてしまうことになるのです。
この世界における唯一の真のエネルギーは、聖霊です。この世界のそれ以外のものは、偽りのエネルギーであり、実際には自我すなわち肉体に属するものです。「世界の癒しのエネルギー」とは、赦しのことであり、それは私たちの心の中の聖霊から来るものです。それ以外のエネルギーの形態はどれも、肉体の世界では適切であったり、存在していたり、現実性があったりするということになるのかもしれませんが、肉体の世界はもともと幻想です。・・
けれども、これは、看護婦であるあなたの前に、誰かが血まみれで死にそうになって担ぎ込まれたきたときに、あなたが、「あっ、ちょっと待ってください。これから瞑想して、何をすればいいかを聞いてきますから」と言わなければいけないということではありません。そんなことをするなら、それは愛ある行為ではありません。ただ、自分は自分は正しいことをことを行いたいという態度をもつだけでいいのです。イエスにあなたを通して行動してもらいたいと望み、その後はただ行動するのみです。・・
「贖罪の原理」とは、「つながり合うこと」を意味します。なぜなら、自我は分離に基づいているからです。ここで私たちが語っているのは、「つながり合う」という原理である「贖罪」の価値は、それが表現される様式の中にあるのではない、ということなのです。
『実際、それが真実に用いられるなら、必然的に、受け手にとって最も助けになるどんな方法ででも表現される。このことが意味しているのは、最大の効果をあげるには、奇跡は受け手が恐れをもたずに理解できる言語で表現されなければならない、ということである』
もし、人々があなたの按手によって癒されると信じてあなたのもとにやってくるのなら。もちろん、あなたはそれを行うべきでしょう。同じように、もし、私が「外科医のところへ行って、その人が私の体を切り開いて、あれやこれやを取り出せば私は回復する」と信じているのなら、もちろん、私はそうすべきだということになります。また、もし人が特定の祈祷文を唱えることによって自分が助けられると信じているなら、もちろん、それをやるべきでしょう。
けれども、このコースが言っていることは、「形態は限定するものなのだから、あなたがおこなっていることは形態とは何の関係もない、ということだけは認識しない」ということなのです。
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ペルーの先生と出会った22年前、自分は30代後半で、先生は50代半ばでしたが、
その頃の先生はまさに、
「奇跡は受け手が恐れをもたずに理解できる言語で表現されなければならない」
を体現する「話し上手」で、「般若心経は本当に力があるよ」と教えてくれましたが、
「悟った」後はあまり語らなくなり、「形態とは何の関係もない」ということを体現してました。
さて、3月24日「彼岸明け」の清里高原は、
まだ雪は残ってますが、ぬけるような青空で、
旦那さんは朝早く、韮崎まで「伐採木」を取りに出かけました。
自分はイイ天気に誘われて、
南側の斜面を降りて、
八ヶ岳が一望出来る草原に出る際、
「誰か」が付けた足跡があったので、
その足跡を辿ってみたのですが、
こんなに広いのに、足跡は「一つ」しか見当たりませんでした。
もしかしたら、(自分がしたように)足跡の上を歩いた人が複数いるのかもしれませんが、
雪景色を眺めながら、足跡にまつわる、ちょっと素敵な「お話」を思い出しました。
「聖霊/イエス/神」は、いつも側にいるので、
「誰か」が歩いた足跡の横には必ず、もう一つの足跡があるのだけども、
随伴する足跡が消えて「一つ」の足跡になってる時は、
一緒にいた「聖霊/イエス/神」がどこかに消えたのではなく、
そういう時は「聖霊/イエス/神」が、その「誰か」を背負ってくれているから、足跡は「一つ」だけ・・とのことで、
苦しんで弱っている時こそ、「一体」になれるチャンスなのかもしれませんネ。
お彼岸7日目は「智慧(ありのままの真実を見つめる)」とのことで、
昨日はお留守番だったベンガル・ピノちゃん、
今朝も元気で、清里でもネコ草を食べるようになり、
もう7歳ですが、ネコらしさを取り戻してま〜す。
「ありのままの真実を見つめる」には、まず「ありのままの自分」でいられることが先決で、
ケネス・ワプニック氏によると、「自我」とは肉体に先立つモノです。
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質問:肉体以前に自我というものはあったのですか?
回答:ありました。分離の想念がありましたし、私たちが神から分離していることができるという信念がありました。それが自我です。分離の想念が心の外に投影されたとき、世界と肉体が現れました。
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国と国でも、人と人の間でも、「争い」が起きるのは「自我」と「自我」がぶつかり合うからで、
憎かったり、悲しかったり、嬉しかったり・・という個々の出来事は、
「ありのままの自分」を知るための貴重な「体験」なんですネ!
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