赤い「もみじ」が見頃となった清里高原では、
11月3、4、5日の三連休中、沢山の観光客が訪れてましたが、皆さん薄着で・・半袖姿も見かけました!
ウチの「もみじ」は、八王子の公園で拾った「種」のせいか、
毎年、赤くなるのが遅いのですが、その分、じっくり変化を楽しめます。
昨年は(うっかり)19日に行って「大渋滞」にハマった、八王子・高尾山の紅葉見頃は11月18日頃とのことですから、
前年比的には「平年並み」の紅葉スピードなんでしょうが、
2009年、日本に帰国したばかりのペルーの先生ご夫妻を、清里の「紅葉狩り」にお誘いした際、「11月になると散っちゃいますから・・」と10月中に行った記憶がありますので、14年前と今では、ずいぶん違うな〜 で、その頃は「蚊」がいなかったのに、今は秋でも見かけます。
やはり全般に、暖かくなっているのは確かなようで、今年は早めに、
50個の「干し柿」を吊るしたのですが、(気温が高いので)カビないか・・ちょっと心配です。
10月31日、旦那さんは、韮崎まで甲州百匁柿を買いに行き、
分けてくれた方は知り合い(温泉仲間)なので、新鮮なカボスもくれまして・・サンマとの相性抜群です!
旦那さんが単独で行き、清里に戻ってスグ「干し柿」作業をしてたので、帰って来た直後は何でもなかったようですが、
夕ご飯の時、珍しく「食が進まない」状態になり、なんでも柿をゲットした後、昭和甲府でラーメンを食べたけど、あまりにまずくて「残した」とのことで、
西荻生まれ、西荻育ちに旦那さんは、大のラーメン好きで、ラーメンを残したのは生涯2回目だとボヤいてました。
脂っこいもので消化不良って、私には時々ありますが、旦那さんには珍しく・・しかもラーメンです(笑)。
ネットで評判の店だったそうですが、まあ油が合わなかったのでしょうね〜〜
というわけで、とりあえず「強ミヤリサン」3錠と、
レスキューレメディーと、クラブアップルをお茶に入れて飲ませたら、
翌朝は問題なくスッキリで、戸隠では「天ぷら」モリモリ食べてました〜
「強ミヤリサン」は常用せず、お腹の調子が崩れた時にだけ使い、
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●医者にリクエストしたい薬です♡♡
●子供の頃ミヤリサンの粉末が家に常備してありました。
私にはビオフェルミンよりもこちらが合っているようです。
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最後に購入したのは「2020/1/6」ですが、まだ残ってます。
「薬」ではなく、サプリなんでしょうが、以前は胃腸の弱かった旦那さん、医者が出す薬を飲まなくなったら、持病だった胃潰瘍・十二指腸潰瘍も全快で、「強ミヤリサン」はもっぱら、脂っこいものが苦手な私が使ってました。
2000年にペルーの先生に出会って以来、ウチは「病院に行かない」生活にシフトしましたが、
世界1「病院好き」の日本人にも、「コロナ」のおかげで(やっと)そういう風潮が出始めているのでしょうか?
女性セブンさんらしい見出し😅
─そもそも病院なんて、行かないほうがいいのだから─www pic.twitter.com/lXENaqmoVe— mocaron (@mocaron2) October 31, 2023
「転ばぬ先の杖」の検査やワクチンは「やぶ蛇」であり、
「乳がんの初期検診として、マンモグラフィーは危険」だし、
「不快症状は、病気を防ぐための警告です。病気ではありません」
と、心あるドクターは言ってます。
さてさて、ペルーの先生が晩年、日本に帰国して居を構えた、山梨県・南部町には秘密があるようで、
「人類の生命と健康を司る知識を伝授していくための組織」=富士高天原の末裔が南部町の佐野源左衛門尉義正で、
佐野氏は後醍醐天皇を南部町と富士宮に招き入れ、「隠れ南朝」として復権を計ってましたが、しかしながら結局、
「南朝最後の尹良親王は、御所を富士から三河に移すために、甲斐と信濃の北回りで移動中、信濃の浪合で土民の襲撃にあい、自害してしまった。これが南朝の最後となってしまった」
とのことで、そして・・・その後、
「南朝最後の尹良親王」の息子・良王は農民となり、ナント、その子孫が豊臣秀吉だそうです!
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ところで、この時南朝を警護していたのが徳川家(松平家)である。三河で御所の準備をして親王を待っていた。しかし到着したのはその息子(良王)だった。松平は本来群馬県尾島町の世良田に行った徳川(南朝の世良田親王の子孫)が名前を松平に代えて、三河に潜入して準備をしていたのだ。これが家康の代になってそのことを知り、元の徳川に名前を代えたのだ。良王は、あまりの貧しさから親王にもかかわらず農民となったのだ。そして、その子孫(3代後)が豊臣秀吉なのである。豊臣秀吉のその血筋は、農民ではなく天皇の子孫であった。後醍醐天皇から数えて7代目になる。
南朝を守っていた近衛兵「佐野の千頭の騎馬部隊」は親王の死後、その意志を継いだ武田家に仕えた。だから武田信玄は強かったのだ。
こうして、富士高天原復活の願いは、武田信玄そして徳川家康へと引き継がれていった。
ここ富士西麓に、人類のルーツ高天原は現在も続いており、その機能も失っていない。ものすごい「神の力」というものを感じる。・・・
私たちの考えも及ばない6000年前の縄文時代に、日本建国に努力された神々の歴史を思うと、現代の人類のしていることはいったい何なのだろうか。ここに一つの疑問が湧いてきた。人類創造の神々の高天原がなくなるということは、人類の滅亡を意味するのではないだろうか。私たちはそれすら忘れ去ってしまった。
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う〜〜ん、確かチャネリング情報でも、織田→豊臣→徳川の流れは、日本を守るための連携プレーだった・・というのがアリましたが、出所は宮下文書?
それはともかく、リマの都会育ちだったペルーラムさんが、過疎化が進む南部町で無農薬農法を始めたのは心強い流れで、
ペルーの先生はよく「日本の食べ物には(農薬の使い過ぎで)力がない」と言ってましたが、
「力のある食べ物」を摂り、(必要のない)病院通いや薬物を摂取しなければ、富士高天原の頃と同じく、人間の健康寿命はもっと伸びるのかもしれませんね〜〜
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