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「水に流す」のはムリな現状とOSHOが語る「悟るために最も重要な学び」

「水に流す」という言葉には、さほど悪いイメージはありませんが、

「水に流す」の類義語は、「帳消し」「チャラにする」「清算する」「不問」「目を瞑る」「お咎めなし」とのことで、

う〜〜ん、今も続いているこういった現状を「水に流す」のは、ちょっとムリかも?

日本だけが、まだワクチンを推奨していて、その結果、苦しんでいる人が増えてることを、どうしてNHKは報道しないのでしょうか?

2023年6月30日の清里は朝から本降りの雨で、日本人が「水に流す」が得意なのは、雨が多いせいかもしれないなぁ〜とか思いながら、

金生遺跡近くの八獄神社に寄った時だけ、ちょうど雨がやみ、パンパンしてきました。


昨年は猛暑の中、「夏越の大祓」に参加しましたが、今年は実家の掃除が「大祓」代わりで、

「夏越の大祓」を前に、波動・周波数療法の速攻効果を実感しました〜

NHK信者の両親とは「価値観が違うから、相談してもしょうがない・・」という感覚で育ちましたが、違いを「受け容れる」踏み絵となったコロナ騒ぎで、

「現世御利益」的な日本の神社は、どんな宗教に帰依している人も差別なく「受け容れる」点が素晴らしいです。

で、「本当の闇とは?」について、実に鋭い洞察をしているOSHOさんは、

若年層に起きている「極端な免疫低下」とOSHOの「本当の闇とは?」

世俗的であろうが、宗教的であろうが、何かの目標を達成するより、ただただ「信頼」を学ぶことの大切さを述べています。

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いまや私は、個的な悟りなどというものがないことを知っている。少し先に足を踏み出すことができる個たちはいる。それだけのことだ。だが、彼らとて全体とひとつに結ばれたままだ。それに、もし悟った人間が自分が他の一部であり、他とひとつなのだということに気づかないとしたら、誰がそれを知るだろう?

我々はひとつの実在(Being)として進む。それに、タントラは急ぐことはないと言う。人を押しのけて列の先頭に立とうとなどするんじゃない、と。ゆったりと自然でいなさい。あらゆるものは悟りへと向かっている。それはいずれ起こる。あなたがそれについて苦悶することなんかない。

もしこれがわかれば、もうあなたはその近くにいる。そういう人はリラックスできる。そうでないと、宗教的な人たちというのはとてもとても緊張してしまうものだ。あたり前の世間的な人たちでさえ、宗教的な人たちがなるほど堅苦しくはならない。

あたり前の世間的な人たちは世間的なゴールを目指している。もちろん彼らも緊張している。が、宗教的な人たちほどじゃない。宗教的な人たちというのは別世界を求めて緊張しているからだ。その上、その別世界はとても遠く離れていて目に見えない。そして彼らは常に、それが本当にあるのかないのか疑っている。するとひとつ新しい不幸が生じてくる。もしかすると彼らはこの世界を失った上、その別世界の方は存在しないかもしれないのだ。彼らは常に、心理的にとてもひどく混乱して苦しんでいる。

その手の宗教的人間にはならないこと。私にとって、宗教的人間とは、ゆったりと自然な人間のことだ。この世のこともあの世のことも思い煩わない。まるで思い煩うなどということをしないのだ。彼はただ生き、そして楽しむ。

この瞬間こそ彼にとっては唯一の瞬間だ。次の瞬間は次の瞬間が自分で面倒を見る。次の瞬間が来たときには、彼はそれをまた受け入れる。楽しみ、至福に満ちてーー。

宗教的人間は目標志向じゃない。目標志向であるということこそ世間的であることだ。あなたの目標は神であるかもしれないが、それでもどこも違わない。・・

もし何かを学びたいと思うなら、他には何もいらない信頼を学ぶことだ。もしあなたが惨めなら他に救いは何もない。信頼を学ぶことだ。もしあなたが人生に何の意味も見出せず、虚無感を抱いているとしたら、他に救いは何もない。信頼を学ぶことだ。信頼が意味を与えてくれる。なぜなら、信頼はあなたをして全体があなたに降臨することを可能にしてくれるからだ。

マスターとは、グルとは、ひとつの窓にほかならない。人は彼を通り抜けなければならない。人はちょっぴり味見をしなくてはならない。そうしたら今度は、あなたは自分の窓も開けることができる。さもなければ、すべては言葉のお遊びに終わってしまう。・・あなたには何も起こりはしない。・・

マスターとは、全面的な至福の具現した現象にほかならない。彼の中に、それは波打っている。もしあなあなたが彼を信頼すれば、彼のヴァイブレーションはあなたにも及ぶことができる。マスターは<教師>じゃない。彼はあなたに教えるんじゃない。マスターは教理や原理なんかに構いはしない。マスターは1つの<現存>だ。もしあなたが彼を信頼すれば、彼は効く。マスターとは<有効性>だ。彼を通してあなたは、<聖なるもの>の最初の一瞥を得るだろう。そうしたら自分でも進める。・・

マスターがあなたに解放を与えることはできない。だが、彼はあなたをまさにその崖っぷちまで連れて行くことはできる。彼はあなたに解放を与えられはしない。それはあなたの手で達せられなければならないのだ。なぜなら、誰かによって与えられたものは、誰かほかの人によって奪われ得るからだ。あなたのものであるものだけがあなたのものであり得る。マスターには何もあげられない。彼はあなたを祝福することができるだけだ。ただし、その祝福というのは強力な現象だ。

彼を通じて、あなたは自分自身の未来を垣間見ることができる。彼を通じて、自分自身の<天命(Destiny)>を知ることができる。彼を通じて、かなたの峰がすぐ近くにせまる。彼を通じてあなたは、ひとつぶの種が空に向かって芽吹こうとするかのように伸び始める。彼の祝福はあなたという種に水を注ぐことができる。・・

偉大な感受性が必要だ。マスターを見つけるには偉大な女性的感受性がいる。そして、あなたに用意ができていて、そこに生きたマスターがいれば、突然、何かがカチリといく。それはあなたの側で仕組むものじゃない。あなたはただそこにいるだけでいい。それは実に強力なエネルギー現象で、あなたがととのってさえいれば、それだけで何かがカチリといくのだ。

あなたはつかまる。それは愛の現象だ。「私はマスターを見つけた」などということは、ほかの誰にも証明してみせることはできない。証拠なんか何もない。そんなことはやろうとしないこと。なぜなら、その反対を証明することくらい誰にでもできるのだから。あなたが見つけて、あなたが知っているのだ。あなたが味わって、あなたが知っているのだ。この<知>はハートの、フィーリングのものだ。

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う〜〜ん、MYマスターだった「ペルーの先生」は、2006年初頭に「悟る」前から「来るもの拒まず、去る者は追わず」ではありましたが、頭デッカチの「宗教的人間」は確かに苦手な様子で、よく、素直であることの大切さを言ってましたが、

頭デッカチが「人生に何の意味も見出せず、虚無感を抱いている」のは、信頼出来るものが何もない・・からなんですネ。

そういえば、価値観の違う「世間的」な両親も、「ペルーの先生」のことはスッカリ「信頼」してまして・・・先生が急逝する2ヶ月前に「南部町に(治療に)行く・・」と父親が言い出したので、旦那さんの運転で両親を連れて南部町に行ったのが、「最期」の会合になりました。

何でもヤレる時にやっておくのがナイスだと、先生との「突然のお別れ」で学びましたが、

ベンガル・ピノちゃん、昨日は長〜い散歩をしておいてヨカッタですネ!

「ゆったりと自然である」ということのお手本は、動物や植物さん達で、

「タモ原水田と隧道」の看板裏に、ひっそり白い花が咲いてました。

というわけで、2023年もあと半年ですが、お国のヤルことが「信頼」どころか、「信用」も失いつつある昨今、

要注意な「コロナ治療薬ラゲブリオ」と「信用と信頼の違い」

個人レベルでそれぞれ、「信頼を学ぶこと」が、一番大切なんじゃないかと思いま〜す。

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