2023年「暖冬予想」は大ハズレで、
11月終盤の清里高原では、連日、最低気温がマイナス5度とかで、12月10日はナント、マイナス11度予想が出ており、通常、このレベルの寒さになるのは1月以降です。
寒さだけならともかく、昨日も今日も風がすこぶる強く、昨日の朝、起きたら、
(夜中にドンという音がしたので)ピノちゃんは多分、気づいていたのでしょうが、
木が倒れちゃっていて、ビックリしました〜〜
家に直撃しなくてヨカッタですが、ギリギリラインで、
この写真の真ん中、斜めになってる木が倒れたのですが、根こそぎ倒れちゃっうほど、弱ってる木だとは分かりませんでした。
おかげさまで、1日分の薪が確保出来ましたが、
倒れた木は根っこがなくなっていて、
漢方薬としても使われる「猿の腰掛」が付いてました。
一方で、木造家屋や、木製の階段・柵・標識・遊具などを害するものも数多い。また、シイタケなどの食用キノコ類の栽培に用いられるほだ木を分解・腐朽させ、間接的に食用きのこの生産に影響を与える雑菌としても、サルノコシカケ科に属する多くの菌が関与している。
wikipedia
霜が降りる寒さの中、根っこがない木は突風で倒れちゃったのですね〜
さて、昨日は倒木の始末をした後、町田の実家に行ったのは、超・老老介護の父親からのSOSがあったからなんですが、
「じゃあ、行くから・・」と電話をした直後から、母親は生き返ったようで、ボケはあるけど、以前と様子は変わってませんでした。
そして一昨日は、介護申請を勧めてくれた従兄弟夫婦が訪ねて来て、いろいろ面倒を見てくれたそうで、今日は母の妹が来るとのことで、三連ちゃんでヘルプが来ましたね〜
昨日水曜日は、プロのヘルパーさんが来てくれた直後だったのですが、おかげさま水場がキレイになって、父も動きやすくなったようで、
着いた直後、私と母親が台所で話していたら、父が(自分で)お茶を淹れて、旦那さんに出してました〜(快挙)
母がボケたことで、実家の暮らしは、今までになかったパターンに移行してますが、これはこれでイイんじゃない? って感じで、父はヘルパーさんが来てる間にスーパーに買い物に行ったそうです。
しかしながら、母の川下意識はあいかわらずで、「お父さんがうるさくて、頭に来ちゃう!」とゴボウを握りしめながら怒りまくってました(笑)。
「夕食はお弁当を買って行くから何も支度しなくていい・・」と連絡していたのですが、父が母に「きんぴらごぼうか野菜炒め位は作れ・・」と言ったそうで、
父は、料理が出来なくなってきた母に、(訓練として)良かれと思ったのでしょうが、
料理というのは、頭(左脳)を使う作業なので、「もうお母さんには無理だから・・」と、父には言っておきました。
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<脳のバランスには『料理』が最適>
一般的に脳の疲労は、右脳と左脳をバランスよく
使っていないために起こる神経的な疲れです。
では、バランス良く使うには…?
「料理」が最適なんです!
そもそも、「右脳」と「左脳」の働きは
右脳→感情やイメージを支配
左脳→理性や数字を支配
料理の場合は、
・何を作るか考える。
・材料を考える。
・味付けを考える。
・段取りを考える。
・出来上がり時間から逆算する。
これは左脳のお仕事です。
・味見をする。
・見た目の美しさを考える。
・どんなお皿を使うか考える。
これは右脳のお仕事です。
https://flexia.co.jp/note/2073-2/
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料理は左脳と右脳を、バランス良く使う作業であり、
ペルーラムさんの話では、母の右脳は大丈夫とのことでしたが、
確かに、「味見」は出来るようで、清里の干し柿を「美味しい、美味しい」とパクパク食べてました〜
母は、正月料理とかも「手作り」する人で、2年前までは「昆布巻き」なんかも作ってましたので、どんどん出来なくなっている事態に、父以上に母は傷ついているのかもしれず、母の「胸が苦しい、頭が痛い・・」は、その気持ちを身体症状で補償しているように見受けられます。
父は、そんな母の「浮き沈み」が不安になると、入院させた方がいいか・・と、電話してきますが、ちょっと元気になると「まだ、大丈夫だ・・」となり、(何も出来なくても)母に家に居てもらいたいようです。
また、母の方も(当然ながら)入院する気はサラサラないので、父の負担を軽減するために、母には「デイサービス」を利用するように勧めておきました。
自分としては、店子さんのゴッド・デトックスに連れて行ったり、ペルーラムさんに視てもらったり、母に対して、やるべきことはやった・・という感じなんですが、
店子さんが教えてくれた、奇跡講座を実践している「正木みちこ」さんという方の著書を読んでみたら、
自分とは違う状況ですが、正木さんも母親との葛藤を抱えて育った方で、
「どうして母は泣いているのだろう?」と純粋に疑問に思った自分にもまた驚きを感じました。それほどに、自分は母から疎まれているとずっと思い込んでいました。
母親に嫌われているという信念を持ちながら、どうして自己肯定感を育てられるでしょう。この根強い無価値感はなかなか癒されることがありませんでした。
四、五歳の頃、夜中に「部屋一面に白いふわふわした霞が立ち込めている」のが見えたり、
無宗教の家庭なのに、小学四年で教会の日曜学校に通い出したり、
思春期には頻繁に「金縛り」を経験したり・・の体験が同じでなので驚きました。
母親の問題が娘、特に長女に投影されるってよくありますが、根っこは同じ、よーするに「自分の全てを好きになる」レッスンです。
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<私は私に、一番愛して欲しかった>
おとといの晩、夜中に目が覚めた時に、ある感情が突然にふつふつと湧き上がって来ました。
誰しも、幼い頃に、心細さに襲われて母親を求めて泣いた事があると思います。
大人になるにつれ、今度は心惹かれる異性に対して、どうか振り向いて欲しい、この人の注目と愛が欲しいと望んだ事があると思います。
どちらも愛を乞い求める感情です。
それと全く同じ感情を、私は自分自身に対して、ずっと抱いていたのだ、という事が、おとといの晩とてもはっきりと分かりました。
私は、他の誰よりも、私自身に一番に愛して欲しかった。
私は、他の誰よりも、私自身にすべてを受け入れて欲しかった。
むしろ、親の愛を求める気持ち、異性の愛を求める気持ち、それから、神の愛を求める気持ちは、私が私に対する、私自身の愛を求める気持ちが投影されたものだった!そのことを身を持って理解しました。
外側の誰か、外側の何かに対して愛や注目や受容を求める気持ちは、今までも敏感に感じ取っていました。
けれど「私を愛して!どんな一部も否定することなく、すべてを受け止めて!」と自分自身に対して訴える切実な声を聞いたのは、これが初めてでした。
それと同時に、もう一人の別の自分がいることにも気づきました。
それは、自分のある一部分を、頑なに拒み続けている自分自身の姿でした。
私の中に「あってはいけない」何かを見て、決してそれがあることを許そうとしない自分です。
それはまるで、小さな子どもが「こっちを向いて!」と必死に声をあげているのに、不機嫌にそっぽを向いたままでいる母親のような感じでした。
この「母親」もまた、愛を求めても応えてもらえなかった経験に深く傷ついていました。
自分の中に三つの視点がありました。
私自身からの愛と受容を求めている私、冷たく心を閉ざした「母親」、それからこの両者を見つめている私の3人の視点です。
布団に横になったままで、私は無意識に、自分の左手を、自分の右手で、ぎゅっと握りしめました。
私の左手が、私の右手によって愛を持って握りしめられたことで、とても温かい気持ちになって安心したのは不思議でした。これは初めて味わう気持ちでした。
奇跡のコースでは、すべての人間関係は「神」と自分自身の関係性が投影されたものだと言われます。
本来の私とは、神がそのまま延長されたものです。
だから自己愛とは、神(本来の私)からの愛でもあります。
ということは、自己と神を切り離したままでは、本当の自己愛にも気づくことができないのかもしれないですね。
自己愛は「自我愛」とはまったく違うものなのですね。
https://note.com/masakimichiko/n/n79716b577bea
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夫婦が揉める時って必ず、エゴ(自我)とエゴの戦いがあり、「主婦の聖域」だと台所を守る女性って結構いますが、
ウチはそういうの全然なく、旦那さんが作った今日のランチ「アマトリチャーナ」、美味しかったで〜す。
「玄米パン」作り以降、旦那さんも(たまに)料理をするようになり、
昨日、実家に出かける前、注文しておいた台所マットが届いたので、今日から使ったら、
毛足が長くてポカポカ、お値段以上のクオリティだと、旦那さんも満足してました〜
私たちの年代だと、退職後の夫が台所に立つ・・って、わりとフツーですが、
91歳の父が、母のために味噌汁を作っている今の状況ってちょっとイイ感じで、
人生いくつになっても、朽ち果てるまで「修行」ですが、
「自分を愛する」って、カラダをいたわることにも繋がり、
“人間の根っこ” 基底のチャクラを強くするためにも、足元を冷やさないで生きましょう!
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